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活動の二つの相

 竹内さん、そして笹木先生から、このブログ記事に対するコメントをいただいた。
 他のことに忙殺されていて、お礼のコメントを書けずにいた。大変失礼なことをしている、早めに何か書かなくてはと思いながら今日になってしまった。
 お二人のコメントを読ませていただいたが、「場の音楽」と「ステージに向かう音楽」という概念を創出した際の私の考えを記述することで、お礼と欠礼のお詫びにさせていただきたい。

 私が音楽活動のモードを「場の音楽」と「ステージに向かう音楽」の二側面に分けて考えたのは、そうした実態があるのではないか、という実情分析にかかわることなのである。
 それは、例えば私たちの生活に「ON」と「OFF」があるといった具合に、生活の実態を二つの側面で把握しようとするようなことなのだ。
 あるいは、もっと卑近な例で言えば、生き物は「植物」と「動物」という二つのカテゴリに分けてとらえることができるだろうといった「分け方の観点」についての考えなのだ。

 そのように、人間の音楽活動を二つの側面からとらえ直すことで、音楽の学習を構想し指導する上で役立つ何ごとか見えてくるのではないか、と考えてのことだが、そのことについては後述したい。
 カテゴリに分ける、ということはそれぞれにカテゴリ分けされたものもまた別の観点(下位の観点)からさらに中分類されたり、小分類されたりするという可能性もあり得る。
 また、この場合は物質を分類しようというのではなく、人間の活動をある観点で切り分けようとしているのであるから、活動の推移や活動の進展によってモードが別のものに移行するということも考えられるが、名付けられたモードそのものに価値の違いはない。
 「随意筋」と「不随意筋」とに分けられたそれぞれの筋肉は、いずれもが人間の体を維持し、活動していくために不可欠なもので、そのどちらに価値があるかを論じることに意味がないのと同様、名付けた二つのモードを価値の軽重で論じてはいないのである。

 話を変えよう。
 学習を深化・発展させるものは、学習者内部に生じる「問い」であることは言うまでもない。その「問い」は、学習対象にどっぷりとひたり、味わい、かかわることでしか生じ得ない。「問い」は、単なる疑問なのではなく、モノゴトに対する「驚きや感動」「よさや不思議さの実感」などであり、だからこそ『何とかしたい』『自分の手に入れたい』というほんものの「問い」がおのれの内にわき起こり生じるのだ。
 私たちが学ぶためには、モノゴトに目をこらし、それとの新たな出会いを心の中で熟成する時間が必要で、この「間(ま)」の中で、じっくりと私たちは考え、対象をイメージし、疑問や解決の糸口を見いだしたりしているはずである。答えを出すことに急ぐあまり「間」を軽視してしまうと「おもしろい追求」「意味のある追求」としての「学び」は起きにくいし、当然主体的で意味のある学習とはなりにくいのである。
 そのように対象に全身でひたり、味わい、かかわる「間」としてのモードを「場のモード」と名付けたのだ。
 そこで生まれた「問い」を追究する過程で、あるいは手がかりを得たり、解答らしきものを発見したりしたときに、むずむずと『誰かに伝えたい、聞いてもらいたい』という伝達や発表・表出の欲求がわき起こり、「ステージへのモード」に移行することで、「問いの解決」に向けた活動にますますはずみがつき深まりや拡充を求めて動き出すことは十分考えられるし、そうあって不思議ではない。(またそうでなければならない、ということもない)
 しかし、「場のモード」で対象にじっくりひたっている間は、第三者に対する伝達や発表の欲求はないと思われる。自己と対象との関係を見つめ、対象そのものの自分にとっての価値や意味を見つめたり見い出そうとしたり、実感したりしているモードだからである。
 さらにそれは「ステージのモード」に移行することを必然とはしていない。自己と対象との触れ合いを味わい楽しむだけで完結する場合も十分予想されるからだ。

 友人たちと歌い合わせてカルテットのハーモニーを楽しむ、あるいは楽曲そのものの魅力を味わうことに時間を忘れて没頭するといった経験を、私自身学生時代から何度も経験していることからもそれは否定できない。そのような経験はどなたもお持ちであろう。
 その多くはいずれ発表して誰かに聴いてもらおうとしたものではない。
 その活動それ自体が楽しく意味あるものだったからだ。
 とは言え、よりよい響きやよりよい表現の追究をおろそかにしていたわけではない。
 より楽しむために、より深く味わうために、4人で指摘し合い磨き合おうとする熱意と心情は「合唱ばか」を自認する自分たちの誇りだったからだし、その楽曲について納得いくまで歌いこみ、かかわれることがアマーチュアのよさではないか。
 頼まれてステージで何度か歌わせられたことはあっても、それは音楽活動の結果として生じた事態であって、行為の最中にそれを意識したことも目論んだこともない。

 それを称して「場の音楽」と名付けたが、ステージで歌うことを承諾した途端に聴衆を強く意識し、自分たちだけのための行為であったことが「聴衆と自分たち」のつながりをめざしたモード、すなわち「ステージに向かう音楽」に切り替わっただけのことなのだ。もし、当初から聴衆を意識し、聴衆に向けて成果を発表するなどということをいささかでもねらっての活動であれば、私はそれを「ステージに向かう音楽」に位置づけて考えるであろう。

 また逆に、「ステージへのモード」で活動しているときにも、「解決に向けて夢中で取り組む」中で、それまで気づかずにいた「対象も持つ価値」「行為それ自体の価値」に改めて気づかされ、自己とのかかわりをさらに深めていく「場のモード」に移行することも考えられる。
 誰かに届けようと思って描き始めた「絵手紙」だったが、構図や文字を絵手紙らしく描く工夫そのことの楽しさにいっそう目覚めてしまい、誰に出すわけでもない絵手紙をせっせと何枚も描いて技量の高まりや工夫することの妙味、達成感を味わい楽しむといったことは十分予想されからである。
 自分の達成状況を振り返って頷き、自分のしたことで心が充たされ快感を得、さらによい成果を求めて動き出そうとする傾向、それが自己実現ではないか。言葉を換えれば「自己の能力をフルに発揮し、現在の自己がなし得る最高の成果を発揮しようとする傾向」のことであって、決して他者からの評価を待つものではない。
 他者から指示され、他者の働きかけでしか十分な成果を達成できない、最高の自己のを発揮できないのだ、とするなら、それは「他己実現」(そんな言葉はないが)とでも名付ける他はない。
 他者から示唆を得たり、他者に触発されたりすることはあっても、「めざす主体」「達成しようとする主体」が自分であれば、それは自己実現に向かう行為と呼べるが、そうでなければ自己実現とは言えないはずである。

 それはさておき、誤解を恐れずに言えば、両者のモードは別個のものであるが、決して無関係ではなく、人間はその二つの側面を自在に渡り歩いたり、どちらかのモードで追究活動を深化させたりし、学び(お勉強としての学習に限らない。生きる妙味としての学び)を展開していくのだろうと考えているのである。
 学びの体験は、ある活動においては「場のモード」が核であったり、また別の活動では「ステージに向かうモード」が核であったりするという具合に一様ではない。それぞれのモードにおける体験が、別のモードによる探究活動をする際に「生きて働く」といった横の関係にあるのであり、「場のモード」の発展型が「ステージに向かうモード」であるといった価値の軽重による縦の関係から見たカテゴリ分けではないのである。(分けた本人が言っているのだから間違いないつもりだが)
 それぞれに意味があるのであって、意識する・しないは別にして、それぞれのモードで、あるいはそれぞれのモードを往還しつつ日常的な活動を展開し、体験をしているはずだという観点で見、活動の相を分けてみたのである。
※長くなってしまった。この稿続く、としたい。


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