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日本人の劣化?

 読売新聞の調査で、子どもの通う学校に理不尽な要求や抗議を行う親に、全国の公立小中学校や教育委員会が苦慮しているという実態が明らかになった、と今朝の同紙が伝えていた。(2007.6.18朝刊)
 具体的には、「子どもには家で掃除をさせていないので、学校でもさせないでほしい」とか「ピアノの技能はうちの子が一番なのに、合唱の伴奏が別の子なのはおかしい」といったあり得べからざる要求やクレームが学校のみならず、学校を飛び越して教育委員会や文科省に寄せられているというのである。
 テレビのニュース番組でもこの件が取り上げられ、中には「クラスの集合写真の真ん中に我が子が写っていない(位置していない)のはなぜだ」「今年の校庭の桜が満開にならないのは学校の教育がおかしいからだ」などという身勝手・意味不明な抗議もあるとして紹介され、司会者もコメンテーターも呆れ憤慨する様子が伝えられていた。

 驚くことはない。程度の差こそあれ、そうしたことはもう10年以上も前から学校現場で起きていたことで、逆にこれまでそうしたことを社会が認知していなかったということにこそ驚かされる。
 運動会の練習で校庭に流れる音楽や先生の声がうるさい、と抗議の電話をかけたり、自分のような難病の親がいるにもかかわらず、親子遠足を実施するのは病気のために参加できない親を持つ家庭の子の心情をないがしろにしているということだ、この親子遠足は実施すべきではない、と中止に追い込んだ親を私自身が目の当たりにしたのはもう7~8年前のことだ。給食費未納の問題なども、ことさらに新しい話題ではないのだ。
 そうした理不尽・身勝手とも言える具体例は枚挙に暇がないほどであるにもかかわらず、社会的に認知されていなかったということの方が不思議で、学校はそうしたことへの対応にも追われてきたのが現状なのだ。
 
 そうした保護者の行為は、自分の主張している内容が社会的に通用することかどうか、判断がつかないままに行動に移しているもののようにしか見えないし、一方では判断の基準を「自己の利」だけに求めて行動しているようにしか見えない。
 もっともこうした問題は、学校だけに起きているものではない。
 社会のあちこちで、「正統な権利」と「個人の身勝手」をはき違えた行為が起きている。 コムスンの問題も社会保険庁の問題も駅前留学を売り物にした語学校の問題も、そしてここ数年頻繁に起きている身内による肉親の殺人もまったく別の問題ではなく、実は同根の問題だと思われるからである。

 香山リカは、その著「なぜ日本人は劣化したか」(講談社現代新書)で、産経新聞に掲載された連載企画「溶けゆく日本人」からそこに列挙された目を覆うばかりの身勝手な例を取り上げ、『これは単なるモラルの低下だけでは説明できない。「自分以外の他者の立場に立って考えられない」という恐ろしいほどの想像力の欠如あるいは想像の拒否が、「もし私がここで強硬に主張したとしたら他の人はどうなるだろう」という発想を妨げているのだ』と指摘する。
 さらに「溶けゆく日本人」に記された『かつて「菊の優美さ」に喩えられた高いモラル観が、小泉八雲が礼賛した美しい礼節の数々が、日本人から急速に失われようとしている」という一文を引用し、『現実はとても「優美さがない」「美しくない」といったレベルの話ではない。溶けゆく先にあるのは、目をおおうほどの劣化した日本人の姿、ということになろう』とモラルも想像力も低下以上の「劣化している」という厳しい言葉で、日本人に起きている重大な変化について論じている。

 大学や企業ですら、すぐには結果に結びつかない地道な調査・研究に時間と費用・労力をつぎ込むよりは、すぐに収益の伸びが期待できそうな活動に躍起となっている。
 そうであっては長期的に決してよい結果を生まないだろうという事がわかっているにもかかわらず、手軽に利を得ることに走ってしまうのは、なぜか。
 そして自己の利を得ることにこだわるあまり、法の網の目をかいくぐるような経営をし、利用者や顧客を食い物にして自己のみを肥大させてきたホリエモン、あるいはコムスンやNOVAのような企業を生み出す背景にあったものは何なのだろう。
 それは、(まったくの素人考えではあるが)経済の成長と発展を最優先させ、「欲」の基づく生き方を是としてきた小泉→安倍と続く空虚な「改革路線」がもたらしたものであるとしか思えない。

 ホリエモンですら当時の小泉政権は称揚し持ち上げてみせたし、コムスンの折口会長は経団連から認められ理事を務める一方、安倍首相とも親密で「コムスンは一生懸命やっておられる」と安倍首相に賛美されたと言うではないか。
 ホリエモンといいコムスンといい、彼らを認めるだけでなく「すばらしい」と賛辞を送る心情の根っこにあるものは、「がんばれば儲かる→儲かっているのは頑張ったからだ→儲けているあなたはそのがんばりゆえにすばらしい」という利益追求を単純に賛美する姿勢だ。
 こうした利益追求の風潮に支配された時代を「失われた10年」と名付けた人がいたが、その失われた重要な部分に「モラルや想像力、価値観」があることは疑いようがない。

 地道に取り組んだからこそ「技術大国」とかつて呼ばれた日本があったし、難問・難題を解決するために『あれかこれか』と労力を惜しまずに探り・考え・試行する人々の姿があったはずだ。そこでは洞察力、思考力、想像力、創造力などありとあらゆる力が発揮され、同時に「作り手」としてのプライドや自制心が『売れればよいというものではない。モノのクオリティの高さで社会に貢献できるモノ』をめざさせていたはずだ。
 その成果が日本の製品に対する「信頼」となっていたのではなかったか。
 そうしたことを排除し、『稼ぐが勝ち』という価値観をじんわりと浸透させ、植え付けてしまったこれまでの政権、『改革なければ成長なし』として成長と拡大のみをめざした政権が失わせたものは多すぎる程で、そう考えただけで暗澹とする思いである。

 そして、自分たちが生み出したそういう社会の動きによる暗い部分から目をそらさせるかのように、学校教育や家庭教育にその原因を求め、それを再生させることが重要だとする現政権に教育を語る資格はないと断言しても良さそうだし、そもそも教育基本法の改正からこちらの矢継ぎ早の法案策定と審議、並びに法案そのもののなかみを「ほんとうの意味での再生」をめざしたものと受け止めている向きは少ないのではないか。
 拙速に過ぎる立法と法をつくれば何とかなるという安易な姿勢からは、「100年の計」としての教育の理念が窺えないし、失われたものが取り戻せるとも思えない。
 これは教育の危機どころの問題ではない。
 ゆゆしき日本という社会と日本人にとっての危機の時代だと言って良いであろう。


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笹木 陽一

ご無沙汰しております。北海道は来週半ばから夏休みとなります。今週で教育懇談を終え、ほっと一息したいところですが、吹奏楽コンクールまで2週間を切り、これからが1年間で一番きつい時期になると思うと、少し憂鬱です。札幌にはPMFという教育音楽祭がありますが、今年は本校の吹奏楽部がPMFオーケストラメンバーと共演する機会を頂き、昨日その演奏会を終えてきました。最後に交流セレモニーがあったのですが、そこで生徒達からPMFメンバーへコメントを書いた扇子をプレゼントする場面がありました。「日本人の劣化」というべきなのかどうかわかりませんが、その扇子に「焼肉定食」と書いた生徒がおり、漢字が読めないPMFメンバーが嬉しそうにそれを会場に向けて見せているのを見ながら、とても情けない気持ちになりました。扇子にそう書いた生徒は、確信のある愉快犯なのか、それとも何ら悪気なく適当に書いたのか、他の学校の生徒なので確認できませんが、「どう見られるのか」「どんな意味があるのか」についてあまりに無頓着であり、かといって安倍首相風に「規範意識が足りない」と切って捨てるのもどうかと思い、複雑な気持ちで帰ってきました。きっとその生徒がいる学校の先生は、帰ってから厳しく指導したのでしょうが、時既に遅しでいやな気分になったに違いありません。それを見ていた会場の人々も、せっかくの熱演に水を差されたような気がしたのではないでしょうか。PMFを代表してスピーチしたタイ出身のホルン奏者は「何よりも音楽を愛する日本の若者と一緒に音楽ができたことを嬉しく思う」と語っていました。その話と扇子にかかれた言葉のギャップに、香山氏が指摘する「想像力の劣化」を痛感させられ、「私たちは音楽を通して何を伝えようとしているのか」を改めて考えさせられました。「音楽は国境を超える」といいますが、個人の想像力すら超えられない「自己チュウ」な生徒達を前にどうしたらよいのか、日々模索する日々が続きます。香山氏の「なぜ日本人は劣化したか」を読んでも、分析は緻密で納得させられるものの、具体的な方策は見えてきません(もちろんマニュアルを求めているわけではありませんが)。参議院選挙の投票日が近づき、各候補者が声高に「政策理念」を叫んでいるのを聞きながら、どれもこれも現実味のない「空論」に聞こえ、空しさばかり募ります。まずは自分の目の前の現実から逃げることなく、一歩一歩やるしかないと自分に言い聞かせ、なんとか実践を重ねたいと思います。また連絡いたします。
by 笹木 陽一 (2007-07-21 17:21) 

おじおじ

 笹木先生、お久しぶりです。関東では今日から夏休み。北海道はもう数日1学期が続くのですね。コメントを読ませて頂き、どうにもやりきれない気持ちになりました。
 音楽に取り組むことが「生きること」と別物であるという認識しかもてていないかのようなその生徒の姿に悲しさを感じます。音楽の指導で何か手落ちがあったのでしょうか。
 また一方では、冗談と悪ふざけ、ユーモアと悪意のある駄洒落、自由とわがまま・勝手などの違いすら意識できなくなった日本人の姿を象徴しているかのようでもあり、「壊れかけた日本人」という言葉が思い起こされ、そのことにも心が痛みます。

 大人ですら、しかも一国を代表する立場にある大臣ともあろう人が、1俵1万6000円の日本の米が中国では7万8000円で売られていることを取り上げ『どちらが高いかアルツハイマーでもわかる』と口をすべらせてしまうなどは、それが病に苦しむ人、介護する家族にどう受け止められるか、どんな悲しい思いを抱かせるか想像することすらできない姿をさらけ出してしまっているかのようです。そうした姿を見せることが子どもによい影響を及ぼすとはとても思えませんが、まさに子どもは「大人をうつす鏡」。そんな子どもに育ってしまったことの責を子どもに負わすことはできないという悲しい現実を見せつけられる思いです。

 きれいごとを言うわけではありませんが、大人が真摯に生きる姿、物欲・食欲・所有欲・金銭欲などの欲望をむきだしにした生き方ではない、まっとうな恥じることのない生き方をして見せることが何よりの教育だろうと思いますが、現在の風潮はその逆を行っているようにしか見えません。「学校よ、教職員よ、しっかりしろ」と言う前に、社会人たる市民が、そしてなかんづく保護者が地に足の着いた「人間としての生き方」「志操に満ちた生き方」をして見せ、望ましい社会への参加を呼びかけるべきなのに、法をつくれば(変えれば)なんとかなると軽薄に思いこんでしまうような浅はかな総理大臣を戴いたおかげで、そうした風潮にますます拍車がかかっているのが現状。

 大阪のある高校では学校の教育成果をアピールするために、「一人の生徒に約30学部・学科を受験させ、うち合格した約20学部・学科を合格数に加算して公表」し、当該の生徒には奨励金まで出していたというではありませんか。また足立区のある小学校では、学力テストの際に児童の答案用紙の間違いの部分を指さし、それとなく間違いを指摘することや情緒的障害を持つ児童の得点を集計から外すなどの不正を校長の指示でしていたということも大々的に報じられました。

 学校までもが「教育することの意味」「教育のあるべき姿」をかなぐり捨て、積極的に忘れ、なりふりかまわず競争に自ら身を投じてしまうような状況を創り出したのは、小泉・安倍の二人の総理大臣。
 まさに今、参院選挙の運動期間中ですが、問われなければならないのは福島社民党党首がいみじくも『ぼくちゃんの ぼくちゃんによる ぼくちゃんのための政治』と表現した安倍政権の政治姿勢そのものであって、年金問題や政治とカネの問題などではないはずです。
このまま現在の政権が支持され続くようであれば(そんなことはないとは思うのですが)、日本人の崩壊はますます進んで深刻な状況になってしまうおそれがあります。
 壊れかかっているのならまだ救われますが、壊れてしまってからでは遅すぎます。
 何とかしなければと焦燥感すら覚えるこの頃ですが、たとえ年金問題や政治不正の問題でも良いから、そのことで多くの人が与党への反対・不支持を唱え、投票で意思表示をしてくれることを願うばかりです。
 また愚痴のようになってしまいました。失礼しました。
 夏休みに入るとますますお忙しくなることでしょう。ご自愛の上ご健闘下さい。
by おじおじ (2007-07-21 23:24) 

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