学ぶ意欲を-続-
『~学力にまして、興味や意欲はお寒い。「科学についての読書が好き」は最下位に甘んじた。科学に関してテレビや新聞、雑誌に接する率もビリである。
興味という土壌が豊かでなければ、学力という果実の収穫は望めない。
日本の物理学は戦後、急速に伸びたという。ノーベル賞の朝永振一郎は外国人にわけを聞かれ、「戦争中の知的な飢えを満たそうとしたから」と答えたそうだ。
いたれり尽くせりの情報で腹がいっぱいになると、好奇心は麻痺(まひ)するらしい。
いまや情報はあふれ、「なぜ?」の問いに手早く解答を得られる時代である。不思議への感性が乾いて、「なぜ?」そのものが減りつつあるともいう。
予見してのことだろうか、朝永は教師の役目を、生徒を知識で満腹にさせないことだと言い残している。』
12月6日付けの朝日新聞、天声人語の記事にはこのように書かれている。
400字にみたないこんな短い文章で、いまの教育問題の核心をついて的をはずさないという「文章のお手本」に出会ったような気がして感銘を受けた。
食べ物ですらテーブルいっぱいに並べられたら、食欲も減退する。
はじめのうちこそ、『こんなにたくさんのご馳走があってうれしい』と思えるかも知れないが、食事の度に大量の料理が並べられれば、しかも『食べたい』と思う前にテーブルの前に坐らされることが続けば、自分の欲しい食べ物を手に入れたという実感が損なわれると同時に、あまりにも大量の料理を目に前にして「うんざり」してしまったり、『こんなに要らない』と拒否したくなるかも知れない。
ここまで書いて芥川龍之介の「芋がゆ」を思い出した。芋がゆを腹一杯食べてみたいものだと念願していた五位の某が、ある貴族の招待で芋がゆを馳走される段になり、ほとんど食することが出来なかった。あれほど腹一杯食べてみたいと思っていたにもかかわらず、あまりにも大量に準備された芋がゆを前にしたとたん、食欲を失ってしまうという話である。
食も知識も、自分の手で手に入れるからこそ、かけがえのない知として身に付く。
自分の手で手に入れようとするのは、その対象に深い関心を抱いているからだ。
だから教師の役目は、その関心を掘り起こすこと、目ざませること、不思議の世界に誘うことにあると言ってよい。自分も驚き、感動し、対象との出会いを愉しんで見せること、対象に近づくことに憧れることで、学習者を新たな出会いの場へと誘うことができるであろう。
「生徒を知識で満腹にさせない」とは、知識を与え続けるのではなく、知識を手に入れたいと思える状況をつくり出すことに他ならない。
学習者にそうした内的欲求が生じるようにしたければ、教師自身が事象の不思議さに瑞々しい感性で接し、未知のことがらへの憧れを抱き、それに触れることを心底愉しむ「問う主体」として学習者の前に立つことが望まれる。
ところで、毎日新聞の同日のコラム「余録」に次のような一文を見つけた。
『テストを受けたのは小学6年から授業内容が大幅削減された今の学習指導要領で学んでいる「ゆとり教育」世代だ。
いきおいその弊害が裏付けられたとの声が高まるが、そもそも詰め込みよりも個々の学習意欲を高めようというのがゆとり教育だったはずだ。
教育は大人の思い通りにいかない。』
従来の学習指導要領の根幹をなすのは、学習意欲を高めること、そして内発的な意欲に基づく学習を展開し、生きて働く「知性」を育てることにあったのは余録子の言う通りである。
しかし、「教育は大人の思い通りに」いかなかったのは、そこに流れる理念を正しく理解できなかった、あるいは 深く認識できなかった「大人」のせいであり、決して「大人の思い通りにいかなかった」わけではない。
内発的な意欲を高めること、そのことの意味や意義、価値についてどれだけの学校がしっかりと理解できていたかと言えば疑問であるし、文科省がその理解をうながすためにどれだけの説明をしたか、それが十分なものであったかどうかと言えば疑問が残る。
教育理念が正しく理解されなかったこと、文科省があたふたと朝令暮改さながらに混乱させるような説明や通達を出し、理念をあいまいにしてしまったことなどが、1980年代前半からコツコツと進行させてきた教育改革を破綻させてしまったと言って良い。
ここは一度立ち止まって、教育の将来をしっかりと見据えた展望を持つべきだろう。付け焼き刃のような対処療法では、「知に憧れる」市民、「考え解決をめざす市民」の育つ教育社会、学習社会の実現は難しくなるばかりである。
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