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裁判員制度について思う

 昨日の読売新聞「編集手帳」子は、次のように書いている。
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  『きょうの阪神・江夏豊投手は打てない――巨人の4番、長嶋茂雄選手が
   ベンチで脱帽したとき、川上哲治監督は他の選手の面前で叱責したという。
   「おまえには江夏のボールを打つだけの給料を払っているじゃないか」
   ◆川上さんの長男でスポーツライターの川上貴光氏が「父の背番号は16
   だった」(朝日文庫)に書いている。とりとめのない連想ながら、裁判員
   制度を考えるたびにこの一節が胸に浮かぶ
   ◆毒カレー事件のような「直接証拠なし、動機不明、全面否認」の難事件
   で死刑をわが手で選び、わが声で告げる苦悩は言葉に尽くせまい。
   その苦悩を一身に背負う人だから国民は裁判官を深く尊敬し、重責に報いる
   だけの給料を払っているじゃないか。裁判員の日当とは格の違う給料を
   ◆裁判に市民感覚を反映させることが裁判員制度の目的ならば、目的の達成
   も安くはない給料分の内、プロが精進すれば済むことで素人を煩わす必要は
   ない
   ◆ひと月ほどして制度が始まれば、「市民参加の歴史的な改革」という
   常套句が世に満ちるだろう。
   掻き消されぬうちに、監督の言葉をつぶやいておく。
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 まさにその通りである。
 いったい誰のための、何のための裁判員制度なのかといういぶかしい気持ちを払拭できずに裁判員制度を見つめているが、この制度からは危うさしか見えてこない。
 この制度を導入するために、(おそらく裁判員に選出された市民が仕事や家事に携われなくなる期間を短くしようとしてであろうが)、迅速な裁判を図っていると聞く。
 しかし、どんな方法をとろうが、そして難事件であればなおさらのこと、短期間で事件を検証し確かな判断ができるという保障はどこにもない。それは加害者にとっても被害者にとっても「公正な裁判を受ける権利」を損なうことになりはしないか。

 その一事だけをとっても、この制度に対する不安と不信が募るばかりであるが、編集手帳子が言うように「裁判に市民感覚を反映させる」というのであれば、それは偏に裁判官が自らの務めを放棄しようとしている姿にしか見えない。そのことについては、以前にもこのブログで書いたので改めて書こうとは思わないが、裁判員に選出された人々に少なからぬ負担や努力・重圧を強いるこの制度は、将来に禍根を残す「悪しき制度」にしか思えないのだがいかがなものだろうか。

 何よりも法律の専門家ではない一般の市民が刑の判断を下すというのは荷がかちすぎないか。法曹界の関係者は、それなりに専門の勉強もし、国家試験もパスしてきているのだ。彼らはきちんとした裁判を自らの手で行い、公正な裁判を実現するためにそうした勉強をし、国家試験を見事にパスし、それに見合うだけの俸給を得てきたのではなかったか。

 市民感覚を量刑の判断に生かすとは言いながら、裁判や法律とは無縁の生活を送ってきたかもしれない一般市民にもその責を負わすというのは、司法の怠慢と裁判の軽視にしか見えないのだ。『裁判は誰にでもできる』と言っていることと同じだからである。
 そう考えてみると、どうやらこの制度を施行する真の目的はそんなところにあるのではなく、もっと別のところにあるのかも知れない、とも思えるのだが、それも勘ぐりすぎではないのではないか。いずれにしても、「歓迎すべき良い制度」ではないと思われてならない。

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