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菅首相の姿勢

 昨日(3/21)は菅首相が被災地を視察する予定であった。
 ところが、天候不順を理由にそれが取りやめになったという。
 こんな雨程度で取りやめるとは、何と言うことだろう。被災地の避難所での苦しい生活を余儀なくされている方、倒壊の恐れのある自宅を守っている方、放射線の汚染におびえながら乏しい物資、寒さに耐えて暮らしている方のことを思えば、この程度の天候状態で取りやめるなどと口が裂けても言えないはずだ。
そもそも何を視察に行くのか、ということを考えれば天候不順の中の方が窮乏生活をしている人々の実態がよりよくわかってよいのではないか。
「自分がリードして立ち直らせる」と広言してきた人の本当の姿はこの程度のもの、ということを露呈しただけの「視察予定」だったとしか言いようがない。

 しかし一方では、この人の視察の意図そのものが「ゆえのない自己肥大」による「自分が(やる)」「自分がリードすれば(できる)」という思い込みに立つものでしかなく、被災地に赴かなくて却ってよかったと言えるとも思っている。
 もはや誰も、この宰相の「発案」や「行動」を頼もしい、信頼できるととらえている人はいないであろう。むしろ、リーダーとして動かずにいてもらった方が良い、と思っている人の方が多いのではないか。「政治主導」にこだわり、浅はかな素人考えで現場を混乱させてきたことに、『もうたくさん』と感じている人は少なくないと思われるからである。
 
 こうした未曾有の危機に際して一国の宰相としてなすべきは、自分が「動く」ことではなく、官邸に情報を集め、それらの情報をもとに優先順位をつけ、専門家集団を組織し、衆知を集めて指示を出すことであろう。優秀な官僚が出番を待っているのにもかかわらず、彼らの力を結集することをしようともせず、いわば素人である政治家があれこれ議論をして難問を解決しようとすること自体に無理がある。衆知を集めることは重要だが、衆愚を集めていては問題解決から遠のくばかりだ。
 そうしてまとめられた衆知の意見をもとに、大局を見据えたビジョンを示し、現場がその具現化を図るというのでなければ、こうした大災害を乗り越えることなどできそうもない。政府内でも「政治主導はいいが、結局、官邸は何も決められない」と嘆く声も出ていると言われているし、その状態を最も露呈してしまっているのが、菅首相の的違いの発案や言動であることを国民はよく認識しているのだ。
 
 そうした官邸の内実を象徴的に物語るニュースが今朝のメディアで報じられた。
 一つは、福島第1原発での放水作業をめぐり、政府関係者から東京消防庁ハイパーレスキュー隊幹部に対して「速やかにやらなければ処分する」との圧力的発言があったこと。そしてもう一つは、石原東京都知事のハイパーレスキュー隊の活動報告会における涙ながらの謝辞に対して、「あの強気の知事が涙を流して礼を言ってくれた。上から物を言うだけの官邸と違って、われわれのことを理解してくれている。だから現場に行けるんだ」と語ったという隊員の言葉である。
この二つの話に示された官邸と都知事の立ち位置の違いは、リーダーとしての望ましいありようをよく示してくれている。
 
 そうした官邸の「素人らしい」「本質を見抜けない」問題への対処のチグハグさといい加減さが、今回の福島第一原発ののっぴきならない危機をいっそう深刻にしてしまったとも言える。
 聞くところでは、米国のクリントン国務長官は地震発生直後、ホワイトハウスでの会合で原発事故に触れ、「日本の技術水準は高いが冷却材が不足している」と懸念を示し、支援を申し出たにもかかわらず、それを政府が辞退したというのだ。
 核分裂の反応を抑える効果から原子炉の冷却に使われるホウ酸と海水を注入すれば、運転再開は難しくなる。そこで、東電は原子炉を廃炉にすることを避けるために自力で事態を収拾する道を選択し、それを政府も追認したことが事態のいっそうの深刻化を招いたというのだ。
 国民の安全を守るべき国が、国民ではなく企業を守る方向に動き、いっそう事態を深刻化させ、国民を「生命の危険に追い込む」というのはいかがなものかと思わざるを得ない。
 ゆえのない自己肥大化に立つ「自己意識」、つまり「自分が」という思い上がりが、この政権の特質であるらしい。そしてその思い上がりに立つ「上から目線」が国民と国をますます危難に追い込んでいるという構図ばかりが浮き彫りになった原発事故である。
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