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「絆」について思う

 今年をあらわす漢字一文字に「絆」が選ばれたという。(いささか古い話題で恐縮だが)
 東日本大震災とそれに続く大津波、さらには福島原発の事故による放射性物質汚染という未曾有の大災害でお亡くなりになった人々、未だに行方不明の多くの人々など被災された人々への想いが込められてのことである。
この「絆」を合い言葉に、何かしなければとボランティア活動にたくさんの人々が現地を訪れ、活躍する姿には深く感銘をうけたものである。日本と言わず、世界中の人々が同じ思いを持ったという意味で、この言葉が今年の漢字一文字に選ばれたのは至極当然のことだと思いつつ、多少複雑な思いでこの報道を受け止めている。
 
ちなみに「絆」を漢語林で引いてみたところ、「きずな」には『ア、牛馬などの足をつなぐ縄、イ、ものをつなぎとめるもの。自由を束縛するもの』とある。また新明解漢和辞典によれば、『①馬の足をつなぐもの、②人の行動を縛る、③人の行動を束縛するもの』と記されている。
 どうやらこの言葉は、私たちが「絆」という言葉から連想する『人とのつながり、分かちがたい思い、連帯感』といった内容とは、対極にあるようなネガティブな意味合いを持った言葉であるらしい。
 日本では、本来の意味の『(馬の足を)つなぐ』ことから連想し、いま私たちが使っているような『つながり、かかわり』という意味を持たせるようになったのではないかと想像されるが、広辞苑では『・動物をつなぎとめる綱・断ち切ることのできない愛情。離れがたい情愛』と記されていて、本来の『拘束』や『束縛』の意と併せて『つながり』という意味を持った言葉(しかもそれは二義である)だと説明されている。

 大震災から9ヶ月以上を経過しても、東北の各地には未だ処理されていない瓦礫が山積みになっていることは周知の通りである。それらの処理を東京、横浜、川崎、埼玉県などの行政が受け入れ、処理を引き受けようとする動きがある。大歓迎すべきところであるが、住民からはその動きに待ったをかけるようなメールや電話・FAXが多く寄せられているという。
 これまでも京都五山の送り火で被災地の木材を薪に使用しようとしたが反対の声に押されて断念する、福島の農産物を扱おうとした宮崎県の業者が搬入を取りやめざるを得なくなる、千葉県内に避難した被災地の人々に『放射能に汚染される』などの心ない言葉を投げかけるなどといった「絆」とはほど遠い、いぶかしい思いのする人々の動きにも報道を通して数多く接してきた。

 『がんばろう』『私たちも一緒にいるよ』などと被災地の人々が痛感している「いたみ」や「つらさ」「怖れ」「怒り」「苦悩」「悲しみ」を共有してのことかどうかわからないが、安易に口にする人も多い。
 同じ「いたみ」「つらさ」を実感できないまでも、想像し『さぞや苦しいことだろう』と心をいため、もし自分がその立場に置かれたらと思い描きその過酷さに数時間でも耐えられるだろうかと自問するだけでも、そうした言葉がいかに軽く上すべりで浮薄なものかということがわかるはずだ。
 そこで思い起こされるのは宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の一節だ。
 “小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ”と詠われているそのなかみは、同じいたみを自分も共有し、共に怖れ、分かち合い、同じ立場で同じ思いで寄り添うということへの焦がれるような思いと覚悟だ。
 しかも「(自分も)小サナ萓ブキノ小屋ニヰ」るのだ。優位な立場で、現代風に言うなら、“上から目線”でない行為であり思いであるからことに大きな意味がある。

 はやり言葉のようにして言われる「絆」を耳にする度、そうした“上から目線”の驕りや尊大さを感じてしまったり、いたみを共にする覚悟もなしに軽々しく口にすべきではないと思ったりするのは、私がへそ曲がりだからなのかも知れない。自分は安全な場所にいて、『がんばれ』『(心は)共に在る』と言うのは、あまりにも身勝手だという思いもある。
 しかし、それでも私はこの「絆」という言葉を大切にしたいと思うのだ。そして、今年だけの言葉としたくないと強く思うのだ。原発を廃炉にするには、40年から50年はかかると言われているし、セシウムの半減期も同程度の年数だと言われている。チェルノブイリの例を見ても、どんなに除線をしても自然界はもとより人間にもたらす影響が長期間にわたって続くことは目に見えているのだ。
そのために故郷に帰れない人々のことを思うと、今年だけの一文字にできるはずがない。
 
 何と言っても、福島原発はこれまで首都圏に送電するために原子の火を燃やし続けてきたのだ。その恩恵を最も大きく受けてきた首都圏の人々が「絆」を合い言葉にいたみを共にしなければ、福島の人々の立つ瀬はないだろう。
 「絆」の原義にあるように『(被災地の瓦礫を)その地に縛り付けておく』ようなことがあってはならないし、根拠も無く東北の人々や物産を『(持ち込ませずに)その地につなぎとめておけ』といわんばかりの心ない動きがあってはならないはずだ。
 日本風の解釈にある『離れがたく断ち切りがたい心のつながり』として「絆」を強く意識しつつ生活していくこと、心を寄り添わせていくことが何よりも大切なのではないかと思われてならない。
 そのためには、東北の復興を願い祈る心と同時に、いたみを共にしようとする私たちの「覚悟」もなくてはならないはずである。

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