SSブログ

学ぶことの意味を置き去りにした学校 [教育全般]

 全国各地の高等学校で、三年生が卒業に必要な単位が不足し、卒業できなくなってしまうかも知れないという報道がなされている。
 大学入試に必要な科目だけを希望する生徒が多く、必修ではあるが大学入試にかかわらない授業は実施したことにしていたというのだ。
時間割には倫理社会や地理と書いてあるのに政治経済の授業を受けさせられた、という高校生の声も報道されていた。
必修科目であることから、抜けてしまった当該教科については当然未履修ということになる。未履修である以上、単位不足になるのは致し方ない。70時間にも及ぶそれら必修科目の授業をこれから実施するというが、やればよいというものでもないであろう。

 高校は大学入試の準備をするための学校ではない。まして予備校でもない。
 高校で学ぶべきことは高校で学べるように環境を整備するのが高校の務めである。
 大学に合格することが「高校での勉強の目的」と学校も生徒もとらえているからこそ、このような問題が起きるのだ。
 学びの本来の意味をどこかに置き忘れてしまったからこそ、このような事態が起きるのであり、そういう状況に追い込まれてしまった学校も哀れと言えば言えないこともない。

 今や少子社会である。どこの学校でも何とか教育の成果を社会に示して自分の学校を選んでもらおうとするのは致し方のないところであろう。まして、競争を「よさに向かう最善の道」であるかのように煽ろうとするかのような昨今の風潮もある。
とにもかくにも大学のこれだけ多くの生徒が合格した、という実績を他にまさった形で示すことが学校への信頼と評判を勝ち取り、自校を選択してもらえる最良の手段であると学校も教師もとらえてしまったのだろう。

 信じられないことだ、困ったことだと阿部首相はコメントしているらしいが、あなたの提唱する教育施策が実現すれば、こうした事態あるいはより予測のつかない困った事態があちこちで噴出するかも知れない。いや、そうした事態が起きることは火を見るより明らかだと言っても過言ではないだろう。

 「学ぶ」ということを単に「合格した・しない」「できた・できない」という結果の側面から意味づける考え方に立つからこそ、目先の結果のみを追い求め、いま必要のないことは捨ててしまってもよいではないか、という暴論を生む。
 世界史を学ぶ、ということは単にこれまでの世界の歴史について知識を蓄えることではない。人間がこれまで歩んできた世界の歴史を見、考え、なぜこのようなことが起きたかに思いを巡らせることで、これからの人間のあり方を考えようとすることにこそ意味があるのではないか。
 さらに言えば「学ぶ」のは結果を得るためなのではない。自分が知らないことがあることに気づき、未知の価値あることを手に入れることに心をときめかせ、何とか手に入れよう、自分のものにしようと対象に近づくことで自分の世界の広がりを味わうことに意味があるのだ。そこでは結果は問題ではない。心を弾ませて対象にかかわること、それ自体が本人にとって意味があるのであって、たとえ不成功に終わったにしても本人が「やり甲斐」を感じ、へこたれずにいつかもう一度挑戦してやるぞ、と密かに決意することがあるとすればそのことにこそ意味があるのである。
 そうした「学び」に生徒たちを誘うことを忘れ、単に結果の善し悪しで学習の成果を見ようとする極めて狭い教育観がこうした状況をもたらす遠因になっていることを忘れてはならない。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 1

笹木 陽一

先ほど(10/29 午前9時~)NHKの「日曜討論」に伊吹文部科学大臣が出演して、高校必修単位未履修問題については「来週中にもスピード感を持って、私の責任において対応策を提示する」と発言していました。しかし「このような問題があったからといって、受験科目に合わせて学習指導要領を見直すというのは違う」とも発言しており、やはり抜本的な解決には至らないのだろうな、というのが正直な感想です。今回の報道に接してすぐ思ったのは、「こんな事大昔からあったことだろうに」ということです。私自身も、社会科で「政経・倫理」が必修でしたが、授業は開設されておらず、自学して共通1次試験(私の代が最後でした)で「政経・倫理」を選択した記憶があります。今回の事で危惧されるのは、ますます教育に対する国や行政の介入が強まるのだろうなということです。番組では、安倍内閣の「教育再生会議」でも議論されている「国による目標設定と最終チェック」の具体的な手段として「外部評価」「学校選択制」「教員免許の更新」「教育委員会制度の見直し」などが話題となっており、見ていて絶望的な気分となりました。論客であった藤原、戸田、藤田各氏の発言も
「まず競争ありき」であり、「納税者の利益にあった教育」「校長のリーダーシップ」「第三者評価より当事者評価」「ダメな教師にはやめてもらう」「教師や学校はもっと競い合って質の向上を」云々、全く現場を見ていない子ども不在の議論だと言わざるを得ません。藤原氏が「よのなか科」を考案して総合的な学習の時間で実践している内容については共感を持って受け止めていたのですが、文科大臣の前で語っている姿は「ただの上を向いたイヌ校長」としか写りませんでした。戸田氏の校長時代の実践も著書で読みましたが、「競争万能の強者の論理」でしかなく、多様な価値観の中で幅のある教育を目指そうとする考えなどどこにも見られませんでした。藤田氏は教育社会学が専門の様で、「競争が格差を固定化する」という危惧を語りながらも、これまで中教審の委員を務めてきた立場上現在の教育改革の理念を追認するばかりで、「現場を知らない学者先生」という感じでした。先生がいろいろな記事で警鐘を鳴らしている通り、教育の専門職として現場を預かっている我々教職員が、今こそしっかりと理論構築して、おぞましき「教育再生論」に立ち向かっていかなければなりません。今現在の私自身のスタンスについては、先日「教育バウチャー」に関する先生の記事にコメントさせていただいたように、研究授業を機に小論にまとめました。昨日郵送させていただきましたので、お忙しい中とは存じますがお読みいただければ幸いです。日教組も10/26づけで「非常事態宣言」を出し、現在を教育基本法改悪阻止運動の山場とみなして活動しています。組合のみならず、市民運動やジャーナリズムも巻き込んで、未来の子ども達を守ろうとする思いを一つに束ねた大きな動きを作り出さなければならないと思います。私にできることは微力ですが、少しでも機会を見つけて今日の教育の危機について多くの人々と語り合い、思いを伝え、連帯していかなければと思います。仁田先生には今後ともご意見を頂きながら、自らの実践を深めていきたいと思っております。今後ともご指導のほど宜しくお願いいたします。
by 笹木 陽一 (2006-10-29 13:27) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

絶対音感ハンバーガーなんて ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。