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「悪夢」発言について考える

 毎日新聞の記事(5/10)によれば、安倍首相が今月9日旧民主党政権を念頭に「悪夢」
と再度発言したことを受けて、民主党の流れをくむ立憲民主党、国民民主党などは10日、
一斉に反発したという。
 安倍首相のこうした発言は、子どもじみたものとしか思えず、当然のことながら国権の
最高機関である「国会」(言論の府)でなされるべき“質の高い次元“のものとは言えな
いと断じて良い、とすら私は見ている。
 卑近な例ではあるが、幼い子どもが喧嘩相手をやり込めるのに窮すると、いまそこで起
きている衝突の原因とは何ら関係の無い『おまえの母ちゃんでべそ』という言葉を投げか
けて鬱憤晴らしをする、あるいは相手の口を封じ込めようとする未発達な姿と同じ次元の
ものとしか見えないからだ。
 国会は相手をやりこめることが重視されるべきではなく、正々堂々とした論を展開し、
互いの意見を尊重し、調整しつつ、よりよい政策を具現化していくためのあれこれを構築
していく場であることこそが望まれるはずだ。
 自身がこだわることの実現にばかり拘泥し、異見を封じ込めることに汲々とし、懐の深
い思考・哲学・論理の背景を支えにした論戦とは対極の「子どもじみた」姿勢からは、頼
もしさや高潔さが微塵も窺えず、尊崇の気持ちなど起きるはずもない。
 見れば見るほど、国会での議論が子どもじみた“勝ち負けを競う”のレベルに終始して
いて情けないほどであるが、その原因の多くは安倍首相の姿勢によるものだ。
 このような人物を宰相として戴くことは、国民として恥ずかしい思いがするし、残念で
悲しむべきことと言わざるを得ない。
 
 私自身は、この首相の言を借りれば「悪夢」ならばまだ良い、とすら考えている。
 「夢」なら現実に起きてしまったことではなく、いつかは目が覚めて『夢で良かった』
と安堵できるからだ。
 だが、現政権下で起きていることは「夢」ではなく現実のことだ。
 残念なことに、威勢の良いスローガンとはうらはらに、それらはほとんど成果があらわ
れておらず、それを隠そうとまるで目眩ましのように目先を変えたスローガンを打ち出す
ということがこの政権の常套手段になっている。
 そうしたことの繰り返しは、失政を目立たなくするための「嘘」や「隠蔽」が横行する
政治の空気を生むことにつながると同時に、さまざまな機会をとらえて政治利用し、支持
率浮揚を図ろうとする姿勢にもつながっている。改元によるお祝い気分を煽るような振る
舞いしかり、新紙幣の早々とした発表しかり、2020年五輪の広報しかりで、国民が浮か
れ気分でいる間に自分たちの失政が忘れ去られると同時に、新しい時代・愉快な時代・賑
やかな活気のある時代を招来することができた政権として国民に意識されれば、ますます
自分たちのコントロールしやすい国と国民になると期待しているはずだ。
 案の定、内閣支持率が上昇し不支持率を10ポイントも上回ったと19日に報じられた。
 何と御しやすい国民であることかと与党は胸をなで下ろしているに違いない。

 だが忘れてはいけない。この政権ほど国会を軽視し、乱暴な強行採決などを行い、主権
者である国民の「知る権利」や「学ぶ権利」、「自由に発言する権利」などをじわじわと、
そして国民に気づかれないように制限することに力を入れた政権は戦後なかったことを。
 「真摯に」「説明する」と言いながら、それがなされたことを見たこともないし、「責
任は首相である私にある」と言いながら何らかの形で責任をとったことも見たことがない。
 さらにはあろうことか『国民も憲法の遵守を』とまで発言したこともある。憲法とは、
政権の暴走を食い止め、国と国民を守るための仕組みであるにもかかわらず、国民に遵守
を迫るということは憲法に対する理解が甚だしく欠如しているということを露呈している
ことに他ならない。
 またある時は、国会での答弁で『私にも発言・表現の自由が有る』と言ったこともある。
 確かに首相も国民の一人であるから「表現の自由」は保障されている。しかし、表現の
自由は「声なき声を持つが、声を上げられない国民」の権利を保障するものだ。強い発言
力を持つ政権担当者がそれを声高に主張するというのも、法の精神を読み間違えていると
いうことのあらわれであるとしか思えない。
 このように憲法についての浅薄な理解しかできていないからこそ、臆面も無く主権者で
ある国民からさまざまな権利を奪い、法の名の下に国民を巧みにコントロールする手段と
して憲法を位置づけられるよう、改正を目指したいのであろうことは明白だ。

 私はずっとTBSのラジオ放送「荒川強啓のデイ・キャッチ」を愛聴してきた。政権を
監視し、鋭い視点から政策の問題点を指摘し、コメンテーターや視聴者、リポーターの声
を取り上げつつ「望ましい国のありよう」を論じてい希有な番組である。
それがこの4月末で突然打ち切りになってしまった。パーソナリティーの荒川自身も理由
はわからないとしているが、報道番組への関与と締め付けが見えないところでずいぶん前
から始まってり、じわじわと拡大しているということだと疑われて仕方がない。
 TBSばかりではない。NHKはニュース番組で政権におもねった報道姿勢を強めてお
り、あたかも政権の御用メディアになってしまったかのようで、(大袈裟ではなく)戦時
の大本営発表をことごとしく報じた姿勢とダブって見えてしまうほどに姿を変えてしまっ
た。かつては、「クローズアップ現代」や「時事公論」などで文字通り“公平・公正”な
視点でさまざまな問題を取り上げて報じてきたはずだが、そうした構えは姿を消してしま
った。そればかりか、優秀なキャスター、中立な視点で問題を論じようとするキャスター
の多くは、閑職に追いやられたり他局に籍を移すことなどを余儀なくされたようである。
 自分たちにとって不利な報道をするメディアを“公平・公正”ではないと非難し、自分
たちにおもねるメディアだけを大切に扱うという姿勢は、「真実から目をそらせたい」と
いう意図のあらわれだと言って良いだろう。
 
 話は変わるが、今月25~28日に令和初の国賓として来日するトランプ米大統領が26
日に両国国技館で大相撲夏場所を観戦し、優勝力士に「米国大統領杯」を贈呈する予定だ
という。27日に行われる予定の日米首脳会談で「日米同盟の結束を確認し、世界に発信
する」ための布石だと報じられている。
 しかも国技館の貴賓席での観戦ではなく、格闘技好きな大統領のために土俵近くの升席
に椅子を置いて座って観戦し、複数の警護官(SP)が周囲について座布団が舞った場合
に備えるという。
 アメリカにおもねりすり寄って、巨額の軍事予算を支出して武器や戦闘機を購入したり、
沖縄県民の意思を無視して基地の重圧を押しつけ続けたり、この首相は「おもねる」こと
が好きなのだろうと思われてならない。おもねることで、自己を利することができるなら
それに越したことはないし、むしろおもねることを重視しているのかも知れないとすら思
えるのだ。
 だからこそ自分におもねりすり寄ってくる者が大好きなのだ。“おともだち好き”なの
もその精神風土のあらわれなのだと見ると納得が行くし、今回の大統領に対する令和初の
国賓としてもてなしたいという考えも(国技館での警備や警護にかかる負担を度外視した
とも言える慮外な扱いだ)、うまく説明ができそうだ。
 そして、それはまた、自分にすり寄ってこない者を敵視・冷遇する態度にもつながるは
ずだ。
 だから、敵・味方を弁別して、ついには敵とみなす者は攻撃すべし、黙らせるにしくは
ないという態度を生むのだ。たとえすり寄ってきた者でも、いったん異見を吐いた者や自
己の都合に合わなくなった者は敵とみなされ、切り捨てられ激しい攻撃にさらされるのだ。
森友学園はその典型的な良い例だ。

 だが、そうした態度はどこまでも「個人」の性向のレベルにおける話のはずだ。どうや
ら個人的な性向そのままに国家を論じようとするこの人物からは、高い視座からモノゴト
を見つめ・考え、練り上げ、幅広い視野で論じられるような“公”に資する構えや動きは
期待できそうもない。どこまでも“私”の人なのだ。これまでのさまざまな言動から窺え
るのは、あらゆることを“私物化”し利己を導き出そうとする人物の姿でしかない。
 本当に国の行方をこの人物に託して良いのかと考えた時、懸念ばかりか危惧されること
の方が先に立つのだ。
 この人の“私”のために、国民が浮かれ騒ぐ歓迎ムードの中で憲法改正などという重要
なことが「国家の喫緊の事項」としてなされるようなことがあれば、将来に大きな禍根を
残すことは必定だ。
 
 だが、振り返ってみれば、国民がおかしたそのような重大な過ちは過去にもある。
 先の大戦でアメリカに戦戦布告した際、それを支持し、大喜びしたのは他ならない国民
なのだ。日清・日露戦争でかろうじて勝利したために、大国意識・強国意識を持ってしま
った国民の多くが、リアリティーのない神国主義をベースに鬱屈を晴らす絶好の機会とで
も勘違いしたか、開戦を祝いごとでもあるかのように支持し後押ししたのだ。
 敗戦後に多くの犠牲を払った国民の多くは『国に欺された』と嘆いたと伝えられている
が、私から見れば一方的に欺されたのではなく、国の方針を歓迎し、歓迎した挙げ句に、
かけがえのないものを失う羽目になっただけだという一面もあるのだ。いわば国のかけ声
を“我が事”として考えることなく盲信し、お祭り騒ぎよろしく戦争に突入することを受
け容れ、喜んで“戦うこと”を選んだ挙げ句のことなのだ。
 
 どうやら国民の『お上に任せておけば大丈夫。悪いようにはしないはずだ』という他人
事のように任せようとする国民性、一斉に同じ方向に走り出そうとする国民性、みんなと
同じにすることが大事と考える国民性は、残念ながら未だに息づいているとしか思えない。
 今、改元を期に「新しい時代が来た」と喜び、東京五輪の開催を目前に浮き足立つかの
ように心待ちにする風が流れ、バブルの再来を願うような浮薄な気分が台頭し、憲法改正
も何か問題があるか、という他人事のようにとらえる風潮からもそれが窺える。
 そうしたことのあらわれが、多くの不祥事を起こしながら下がらない支持率をこの政権
に与えているという不思議な現象だ。
 国民が目を凝らして何が起きているかをしっかり見極めなければ、「悪夢」どころか悪
夢以上の「取り返しのつかない現実」がすぐそこにやってくるのだ、ということを自覚し
なければなるまいと強く思われるのである。


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