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不寛容な時代を嘆く

 近年、おおらかに多様な文化や考え、人や国としてのありようを認めようとしない、
或いは受け容れようとしない、いわば寛容さとは対極の風潮が世を覆っているように
見受けられる。
 そして一方では、不寛容さの余り「異なるものをやりこめ」、「排除」して、安直に
苛立ちを解消し「スッキリ」したいという気分が、そうした不寛容な態度と同調する
かのようにさまざまな場面で見受けられるようになった。
 アメリカのトランプ大統領に代表されるように、自国主義を標榜し、自国の利益の
みを優先することに前のめりな国の姿が目に付くようになり、日本国内でも最大与党
が多くの市民の声を無視した自分たちの「こだわり」の実現のために、異見を持つ者
を排除したり、誹謗中傷することに躍起になり、真摯に議論をしようとしない態度が
頻繁に見受けられるが、それもそうした風潮を象徴するものだと思われてならない。
 国家レベルだけではなく、市民の間にもそうした不寛容な姿勢や、自分を邪魔する
ものや苛立たせるものを暴力に訴えてでも排除し、障碍を解消して「スッキリ」した
いという子どもじみた姿勢が目に付くようになった。

 日韓関係の悪化に関して、嫌韓報道が相次ぐ中、少し冷静になって問題の解決をと
主張する人物に対して『非国民だ』となじるような嫌がらせに近いメールやSNS上
での非難が寄せられるというのも、不寛容な態度と子どもじみた問題解消への姿勢と
無関係ではないと考えている。
 対外的な問題ばかりではない。市民生活に於いても、「あおり運転」に見られるよ
うな乱暴で直裁的な、本来なら問題解消にならない「安直な問題解消に走る姿勢」も
それに通じるものがあると思われる。
 また、疎外感や喪失感から、誰でも良いから殺したいと思ったなどという犯行に見
られる犯罪者の心理も、自らのやり場のない鬱屈を「一気に」「手っ取り早く」解消
し晴らしてしまいたいという、(本来的な解決とは無縁な解決の仕方でないことは当
然であるにもかかわらず)「社会の不寛容さ」に対するこれまた「不寛容極まりない」
心の動きがあるのかも知れないと見ている。

 ここで話題を「寛容さ」ということに転じたい。
 私はこれまで“リベラル”という概念を、右派に対する左派、保守に対する革新、
という具合に漠然ととらえてきたのだが、そうではないことを知らされた。
 本来の“リベラル”とは、と『大衆の反逆(オルテガ・イ・ガセット)』を読み解く説明の中
で、中島岳志(東工大教授)は、もともと“寛容”という意味から発生しているのだ
と指摘していることに出会ったからだ。
 以下、引用である。
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    近代的な「リベラル」概念の起源は、十七世紀前半、ヨーロッパで起
   こった三十年戟争にあるとされています。この戦争は、本質的には価値
   観をめぐる戦争でした。前世紀に宗教改革があり、プロテスタント、な
   かでもカルヴァン派がヨーロッパで大きな力をもちはじめた。これに対
   して旧勢力であるカトリックの人々が反発し、ヨーロッパを焦土にする
   ほどの戦争につながっていくのです。
   しかし、三十年問の激しい戦いを経たにもかかわらず、どちらが正しい
   という結論は出なかった。そこで人々は気付くのです。「価値観の問題
   については、戦争をしても結論は出ず、人が傷つくだけである」。
   ここに現われたのが「リベラル」という原則でした。
    つまり、自分と異なる価値観をもった人間の存在を、まずは認めよう。
   多様性に対して寛容になろう。自分から見ると虫酸が走るほど嫌な思想
   であっても、それはその人の思想だと受け入れることが重要だと考える。
   これが近代的「リベラル」の出発点なのです。
    この概念は言い換えれば、「あなたの信仰の自由は認めますから、私
   が信仰をもつことについてもその自由を保障してください」ということ
   にもなります。ですから、必然的に「寛容」は「自由」という観念へと
   発展していく。こうして自由主義としてのリベラリズムが生まれてくる
   のです。              (NHK「100分de名著)
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 それはすなわち、自由主義=最高に寛大な制度という考えにつながり、他者を受け
容れるという寛容な精神に他ならない、という。
 そして、著者のオルテガ・イ・ガセットは、『リベラルの原則に基づいた「最高に
寛大な制度」である自由主義は、「地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである』と
し、『いくら多数派であり、大きな力をもっていても、リベラルの原則(他者に対す
る寛容)を崩してはいけない。いかに多数者がさまざまなことを決定するのであって
も、その多数者と同様の考えや感じ方をもたない人の権利を擁護する余地をつくらな
くてはならない』と断じているというのだ。
 一方で、このリベラリズムを共有することは、非常に面倒で鍛錬を伴うというのが
オルテガの認識だという。自分と考え方の異なる人間に対して、すぐにかっとなった
り、一方的に支配したりしようとせず、違いを認め合いながら共生していく。それは
手間も時間もかかる面倒な行為であるけれど、それを可能にするために人間は、歴史
の中でさまざまな英知を育んできたと考えていたと中島は指摘する。

 そうした“面倒で鍛錬を伴う”構えや向き合い方が、市民生活に於いても国家間の
関係に於いても、(長い人間の失敗の歴史から生まれてきた崇高な知惠として)重視
されなければならないと思われるのだが、面倒さを嫌い、鍛錬を怠る安易な姿勢から
としか思えない、身勝手な、そして居丈高な主張の応酬ばかりが目につくようになっ
たということなのだろう。
 それはいわば「夜郎自大」な広がりの乏しい、未成熟な社会や人間のありように似
た愚かしい姿そのものとしか思えないし、そうした「未成熟」に愚かにも立ち返って
しまった姿なのかも知れないと私は見ている。 
 寛容な構えを放棄し、自己の考えや希求するものにこだわるということは、すなわ
ち“拘泥”“束縛”から脱却できない姿であることは言うまでもないが、その姿勢から
は“寛(ゆったり、ひろく)”“容(うけいれ、うけとめる)”な志向などは望めそうも
ない。
そしてまた、その故に他から信頼され、頼もしいと受け止めてもらえる存在としてある
ということも期待できないはずだ。
 そのような人物・集団・国家が、後世に「誇れる存在」として歴史に名を残すこと
などない、ということは歴史が証明しているのだが、自己肥大化するあまり、そんな
ことすら顕在意識にのぼらなくなってしまった人物が多くなっているように思われて
ならないのだ。この不寛容さがはびこる時代を慨嘆するばかりである。
 
 考えてみれば、豊かな生命が息づく地球は、広い宇宙の中で多くの偶然によって奇跡
的に生まれたたった一つの存在なのかも知れないのだ。膨張し続ける広大な宇宙の中で
は、ちっぽけな存在かも知れないが、誠に得がたい小さいけれども貴重な星の表面で、
紛争や衝突を繰り返し、果ては地球の環境までも破壊し続け、自らの存在までも危うく
するということが、唯一の「知的生命体」としてのあるべき姿とは到底思えない。
 地球が滅べば、ノアの箱舟に乗って他の惑星に移住すれば良い、などという話に与す
べきではない。いずれ移住先の惑星もヒトの手によって環境破壊されるだけのことで、
今ここで起きていることに対する望ましい解答でないことは論を待たないからだ。
 多少話を広げすぎたかも知れないが、そうした視座から“互いの自由を守るため”に
何を自己内に育んでいけば良いか、互いにどう接すれば良いかを考え実践して行くこと
こそ、言葉を操り、言葉で考え、考えを確かに伝え合うことのできる「ヒトの存在意義」
に違いないと思われてならないのだ。そのためには、「不寛容さ」を脱却し、多様さに
対する深い理解と認め合おうとする不断の努力が不可欠であるということは疑いようが
ないであろう。

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