SSブログ

続々 安倍政権の本質を探る

 “私”にこだわる安倍首相は、幼い頃から独善と独断の人生を歩んできたに
違いないと私は見ている。
 世界に誇るべき平和憲法である「日本国憲法」を、『何回読んでも、敗戦国
としての連合国に対する詫び証文でしかない』とか『非常にみっともない憲法』
だと度々切って捨てるような言い方をしている。しかし、戦前・戦中の暴走に
似た拡大主義で、アジア各国に多大な戦争被害をもたらした反省に立って、そ
のように暴走してしまう政権の再来が二度とあってはならないという自戒の元
に、その時々の政権の恣意的な振る舞いをくい止める歯止めとして、すこぶる
理想的な憲法を幣原喜重郎らが奔走して作り上げたものなのだ。
 決して戦勝国である連合から強制されたものではないことは、諸々の記録か
らも明らかなのだ。つまり、安倍首相の先の指摘は、彼の独善による思い込み
による独断でしかないということだ。

 そうした現憲法を忌避する姿は、とりもなおさず戦前・戦中の帝国主義時代
に回帰したいという願望のあらわれであろうし、彼のコアを形成しているもの
が“全体主義”の中で“権力”をふるう自己の姿を到達点と夢想する“私情”
なのだろうと思えてならない。
 そのような全体主義に立つ国家こそ世界に冠たる日本のあるべき姿だという
すこぶる独善・独断にどっぷりと浸り、幼い頃から民主教育をはねのけてきた
結果、常人が素養として持っていることすら身につけることを拒絶してきたの
ではないかと考えると、疑問に思えるこれまでの言動について納得が行く。
 
 話は変わるが、日本人なら当然持っているはずの「素養」について、母国語
である日本語についての認識不足を露呈することもしばしばである。
 行政府の長でありながら、自らを立法府の長であると、まるで三権分立を頭
から否定するような発言をしたり、『私が国家だ』と平然と言い放ったり、呆
れたことに『私は総理大臣ですから、森羅万象すべて担当している』とまるで
全知全能の神であるかのように自分の立場を“勘違い”し思い上がった表現で
言ってみたり、常識では考えられないようなことどもをあっけらかんと言い放
つ場面もあった。
 だが、それは日本語について知識不足のためになされた単なる言い間違えで
はないかも知れないと私は見ている。
 おそらく安倍首相の根っこの部分に、自分は一国のリーダーなのだから、民
は従うべきだ。そして自分を「仰げ」「非難するな」「逆らうな」という思い
込みがあるのだろうと思われてならないのだ。
 決して“単なる言い間違え”などではなく、“独裁者然”とした本心が顔を
覗かせてしまったということなのだろうと想像している。
 その恐ろしい思い込みに比べれば、云々を“でんでん”と読み間違えたり、
『募ってはいるが、募集はしていない』などという珍回答はかわいらしいもの
だと言っても良いほどだ。
 
しかし、と私は思うのだ。私たちは生きた言葉を駆使してモノゴトについて
とらえ、理解し、考え、伝え、互いに理解を図ろうとしているのだ。
とりわけ、複雑かつ緻密な思考を創り上げるには、それに耐えうる確かで豊富
な語彙を自己内に持っている必要がある。
貧弱で粗雑な言葉からは、粗雑な思考しか生まれないのだ。
 日本人である私たちは、普段から母語としての日本語を使い思考し、確かめ、
自己内の知の体系を常に構築し直して生活しているはずだ。その日本語があい
まいなものであったり、不確かなものであったりすれば、生み出される考えそ
のものが正鵠を得たものになろうはずがなく、時として誤った考えに到達する
ことも考えられる。
 誰もが知っているはずの漢字を誤読したり、同じ意味であるにもかかわらず
そうではないと誤解していたりすれば、その人物の言動に不審を抱くのも当然
であろうし、その人物のこれまでの学習過程が思いやられるし、大いに信用を
損ねるであろうことも想像に難くない。
 充実した思考の過程を経て訥々と紡ぎ出される言葉の数々は、深みや重みを
持つことであろう。信頼をベースとした理解は、その奥深さからもたらされる
のだ。
 逆に、粗雑な言葉から生み出される浮薄で浅薄な考えは、どんなに流暢に語
られようとも頼もしさからはほど遠いものとなるであろうし、訴求力の低いも
のとなってしまうことは論を俟たない。

 安倍晋三という人間を形作っている要因の一つに、母国語としての日本語を
“抽象概念を理解したり論理的に分析したり”する、自己の人間的成長にとっ
て重要なものとして真っ正面から謙虚に学んでこなかったこと、があるのでは
ないかと私は見ている。
 そう考えれば、「真摯に」「丁寧に」説明すると言いながら、それがなされ
たことを見た覚えがなく、「責任は私にある」と述べながら責任をとった形跡
がないことなど、言葉と行為が伴っていないことなどについて納得がいくし、
そう考えないとこれらの言動についてうまく説明できそうにないからである。
 こうしたことから窺えるのは、人間として持つことが望まれる“素養”が身
についていないばかりか、ひいては(奥深い思考に裏打ちされた)大人として
備えるべき懐の深い寛容さにも欠ける人物に過ぎないということだ。

 そのような本性を有しているにもかかわらず、(あってはならないことに)
安倍首相が日本の舵取り役を担ってしまっている、というのが我が国の現状で
あり、国民にとっての悲劇だと言うべきであろう。
 この政権から問題が起きる度に、「長期政権の“驕り”“緩み”」がもたらす
ものだ、という言い方がなされるが、それ以上に根深いのは、この政権の持つ
民主主義や平和主義を嫌う「本性」だと私は考えている。第一次政権発足当初
から、「背広の下に鎧を隠している」と、このブログで指摘してきたが、その
「本性」がさまざまな問題のベースにあるからこそ、ウソにウソを重ね無理を
通そうとしなければならず、それが政治と政治家の劣化が続いているのだ。
 この稿のタイトルを『安倍政権の本質を探る』とはしたものの、安倍首相の
本性がこの政権の姿を強く形作っていることを考えると、『安倍政権の本性を
探る』とした方が相応しかったのではないかとも考えているところだ。

 ここまで書いてきてふと気づいたことがある。
 安倍首相に欠けているものは、素養(あるいは教養、見識)だけではないだ
ろうということをである。
 その一つに、現状を真っ直ぐに見つめ、現実のものとして把握しようとする
リアリティーの無さ(あるいは希薄さ)が挙げられる。それは外部の対象だけ
ではなく、ご自身をありのままに捉えようとする「メタ認知」の能力であり、
自らを省みることのできる力の不足にもつながっているように思われる。
 自らを省みることができないからこそ、知識不足であっても平然としていら
れるし、恥知らずな言動をしてもどこ吹く風でいられるのだ。
 これから先は次の記事で考えて行きたいと思う。

=この稿続く=


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。