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勝ち組・負け組? [教育全般]

 一昨日のこと、朝刊を開いてみて驚いた。
 紙面下段の書籍の広告に『わが子を「下流社会」の住人にしないための情報と解決策~教育格差~』と大きな文字が躍っているのだ。 
 著者はこれまで受験のための学力こそ真の学力とばかり『受験勉強をさせることが大切』だと主張してきたW氏。しかも彼によれば『受験勉強は要領』であり、その要領さえ身につければ東大合格も夢ではない、と言う。受験勉強のカギは「要領」であり、それを身につけることこそ「学力をつけること」であるとする主張からは、ほんとうの学びに子どもを誘おうとする思想は窺えない。
 さらに日頃から彼が声高に主張する『親の意識が子ども命運を決め、勝ち組にする決め手となる』という理屈から察するに、彼にとっての学習はどこまでも社会で優位に立つための方便でしかないとしか思えない。わが子を負け組にさせないためによい学校に進学させることが親の務めで、子どもが学習するのもその受験競争に勝ち残るためにすることだ、と言いたいのであろう。
 それが考える力や創造する力、生きる上でよりよく働く力となるかどうかなどは問題ではない、とにもかくにも受験を勝ち抜くための「要領」を身につけることこそ肝要だと言わんばかりのこれまでの主張から生み出された著書のタイトルは、まじめに教育について考えているとは思えないようなものばかりである。
 いわく『「見せかけ」からはじめる速効ステップアップ仕事術 』『人は見かけで決まる 頭を良く見せるための心理学 』『能力を高める受験勉強の技術』『受験は要領 中学受験編 合格を勝ち取るために親がすべきこと』『和田式高2からの受験術 勉強は要領だ! 学校のやり方に従わない“要領勉強術”』『能力を高める受験勉強の技術』等々。

 見かけや見せかけが大切だとする彼の思考は、真理を探究しものごとの本質に迫り、そのことによって問うことを学びつつ自らの生き方について考えることが学問だとする高邁な理想とは相容れないものがある。学ぶことを「要領」と「術」というきわめて俗なレベルにひきずり降ろし、その俗なレベルでのみ「能力」をとらえ論じようとする姿勢そのものが「見かけや見せかけだけでよい」とする主張とリンクしているかのようである。
 しかも高校や大学で学ぶことですら、勝ち組になるための方便であるとしているように、多元的であるはずの幸福論も、彼にとっては一元的な「勝ち組、負け組」という二律背反の価値論でしか考察し得ないようである。
 一時的に受験に失敗したからと言って、生涯不幸な生活を余儀なくされるわけでもないし、仮に受験に成功したからと言って幸福な一生を送れる保障などないにもかかわらず、懐古的な学力論で(しかも先に見たように底の浅い学力論)一元的な価値観に子どもたちを、そして親を追い込もうとする彼の目的は何のであろうか。

 そのような中、奈良で父親から強いプレッシャーをかけられ続けた高校1年生の男子が自宅に放火し、母親と弟・妹の3人が焼死するという事件が起きた。
 事件を起こした少年は小学校では秀才と言われ何をやっても優秀な成績を収め「スーパーマン」と賞賛されたと伝えられている。彼は父の職業である医師になることを望み、一方父親は自宅の書斎をICU(集中治療室)になぞらえて集中勉強室と名付け、厳しく学習指導にあたったとも伝えられている。
 少年も父親も「医師」になることこそ「勝ち組」となることだと信じ、少年も健気にがんばったのであろうが、がんばりが常に成功に結びつくとは限らない。家の中でありながら心が安らぐ場所ではなかったであろう集中治療室と名付けられた勉強部屋で、父親に殴られ叱責をうけながらの勉強、しかも思うように自己の成果が自覚できずに取り組む勉強は幸せを予感させるようなものでなかったであろうことは容易に想像がつく。
 彼が通学していた小中一貫の私立学校は、塾に通うことを控えるよう指導していたにもかかわらず、父親の強い指示でその指導に反して塾に通って受験勉強をしていたという。
 父親の一元的な価値観が少年への強い統制を生み、それが血のつながりはないとは言え母親と弟・妹を死に追いやるような切羽詰まった心境に彼の少年を追い込んだことは疑いようがない。放火による殺人は罪深いことであることに間違いはないが、両親によって追い込まれてしまった少年にのみその罪を負わせることはできないのではないか。

 高校生の息子に勉強を教えることができる父親という存在は、ある面でたいそうな能力を持った存在であると言える。しかし、一面では「学校の中でだけ役立つ知識」とほんものの知を混同し、それを後生大事に保持し記憶し続けてきた存在なのかも知れない。
 そうした混同は、この父親の医師になることこそわが子の幸福への道という安易な思い込みによる価値観と何か相通じるものがありそうな気がする。自分の通ってきた道以外に多種多様な人生の道があることを知ってか知らずか、それだけが幸せな人生を歩む道であるとわが子に強いてきた父親の人間観や価値観は、自らの自信とはうらはらに何とも偏狭なものとしか思えないのは私一人ではないであろう。
 医学部に入学できるだけの学力を持ち、医師としての道を大学卒業後歩んできたとは言え、医師として持つべき多様な価値を認め、さまざまな生き方を認めるという人間としての広さ・寛容さ、軽重の判断を誤らない価値基準の確かさなどが身に付かなかったとすれば、この父親自身の人生や学習態度、学習内容に何か欠けているものがあったと言われても仕方があるまい。
 父親の浅薄な価値観と切羽詰まった上でのこととは言え子どもの短絡的な現状逃避の行為は、ひとえに「学習=受験勉強」「合格=成功」「成功=勝ち組=幸福」という単純な図式による思考が生んだ結果でしかない、と思われてならないのである。
 
 このような残念な事件を目の前にしてあのW氏は何を思い、何を考えるのだろうか。
 彼の考えるような二律背反の一元的な価値観と通じる考えによる教育が、一人の少年を追い込み重大な罪を犯させ、3人が突然生命を断たれるという悲惨な事件の背景にあったとすれば、これまでのように声を大にして「勝ち組こそ成功者」「成功に導くのは親」とばかり親の統制を求めるような言い方はできないはずだ。
 そして何よりも人生の目的は決して「勝ち組・負け組」などという観点から論じられるべきものではないし、人間がものごとの本質に迫りそれを知りたいと願い学ぶのも、そのような取るに足りない目的や実利的な目的のためでは決してないということは言うまでもない。「下流社会=負け組=不幸せ」という短絡的な思考に基づいたW氏の論法に乗ってはならないし、まともな教育者なら決して議論の対象とはしないであろう。
 嘆かわしいことであるとつくづく思わざるを得ない。


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「競争」を見直す視点を [教育全般]

 一人の一級建築士により構造計算書が偽造されたことが発覚したことから始まったいわゆる「耐震偽装問題」は、年が明けてもその疑惑が解明されぬばかりか全容が未だ見えない状況である。 いくつかの企業が組織だって、そして悪意をもってしたことかどうかは別として、自己の目先の利益を求めることにのみ拘泥し、顧客の安心や安全を脇に押しやって企業活動を展開したことによる当然の帰結なのであろうが、これは企業として当然持つべきはずであるところの「倫理の欠如」が引き起こした問題であるともいえよう。

 そうした中、今度はライブドアによる証券取引法違反事件がマスコミをにぎわしている。 「ヒルズ族」「時代の寵児」「勝ち組」ともてはやされたIT企業の青年社長が、『金と数字は皆の共通言語。一番分かりやすい物差しだ』として「もうけのカラクリ」を駆使し、世の中を欺いてまで自社にそして自己に利益をもたらすことに躍起となったことが、こうした事件の背景にあることは疑いようがない。 そもそもIT企業とは、ITを生かして生産的な活動をし、生産活動を通して産み出される製品によって社会に貢献する企業を指すのであって、実態のない株のやりとりで利を生むことを目的とした「ITを活用するだけの企業」を指す言葉ではない。 ましてや、その利で他の企業を買収し、そこで生まれた利を自己に換言して自らを利する企業のことを指していう言葉でないことは言うまでもない。 ライブドアのような会社をIT企業と呼ぶのがふさわしいかどうかは措くとして、これら二つの事件の根底に共通項としてあるのは、浅薄な「新自由主義」に立つ考え方ではないかと思われる。

  新自由主義(neoliberalism)とは、政府の機能の縮小(ダウンサイジング)と、大幅な規制緩和、市場原理の重視を特徴とする経済思想であり、そこでは政府の過度な民間介入を批判して、個人の自由と責任に基づく競争と市場原理に重きが置かれるという、市場万能、競争万能の思想である。まさに現在の日本はその風潮のまっただ中にいるのだ。

 大幅な規制緩和により、「官から民へ」の流れが強調され、『民でできることは民へ』が合い言葉となったことは記憶に新しい。「官」ならば第三者の立場で厳しく評価し、社会にとって不都合なことを排除したり制限・制止することが期待できるが、「民」にあずければ企業の論理が働き、社会にとって不都合なことであっても自社の利益を優先しようとの考えが働かないとも限らない。市場における自由競争とはそうした危険を大いに孕んでいるのだ。 今回の「耐震偽装問題」も検査機関が民間企業であってもしっかりその機能を果たしていれば何件かは防げたのではないか。 また、個人の自由な競争が標榜されたことが、あらゆる手段を駆使し自社をそして自己を利することが「勝ち組の証」であり、そうした競争に負けたものは淘汰されて当然の「負け組」であるとの考えを生み出す土壌になっている。そうしたことが、実態のないものをやりとりし、そこで生じた利がまた利を生むカラクリを考え出し、何をしても「勝てばよい」とする例の青年社長のような存在を生み出す基盤となっている。

  そうしたことから、これら二つの事件の背景は同じだと考えられるのだが、新自由主義について、「国民の生存権の保障」を、「『サービス』という名の営利事業」に変えたとの指摘がある。つまり、従来は民(=大企業)だと撤退する準公共財の供給事業を官が補完していたが、新自由主義はそれを否定し、「民(=大企業)こそ絶対だ」という単一の発想に基づいているという指摘である。 小泉政権下で進められた小選挙区制の導入、平成の市町村合併、郵政省の民営化などの構造改革もそうした流れの一環で行われていることなのだ。

 その流れの中では、人材派遣に象徴される労働者の使い捨て、「不良債権の処理」と称した中小企業潰しが横行し、「大企業は盛えて民(=労働者)は滅ぶ、首都は盛えて地方は滅ぶ」の二極分化が急速に進むと予想する論者もいるという。 そして日本国内の評価とは全く正反対に、新自由主義的な政策で国民経済が回復した国は実際には存在していないし、債務国の再建策として新自由主義的な経済政策を推し進めていたIMFも、2005年、その理論的な誤りを認めているというのだ。

 このような動きは政治・経済の範疇だけの話ではない。教育界も無関係ではないのである。 その象徴的な動きは、2004年10月5日の閣議後の記者会見で、当時の中山文部科学省が『学校でもこどもたちが競争意識を高め…切磋琢磨する風潮を高めたい』という趣旨の発言を行ったり、さまざまなメディアが「ゆとり教育(この言葉が現行の指導要領の趣旨にふさわしいかどうかは別にして)」を批判し「競争の教育」を無批判に礼賛している状況からも窺える。 イギリスではサッチャー政権下でこうした競争主義に基づく教育改革が行われたが、その弊害が浮き彫りになり、その反省のもとで大きな変化の兆しが見られるという。 競争がほんとうに学力を保障し学びを助長することになるかどうか、私たちはしっかり見据えて教育に当たらなければなるまい。


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なぜ群れたがる?日本人 [教育全般]

  日本は、『群の社会』なのだろうか。あらゆるところで、いろいろな人が仲間をつくって「群れて」いる(「群れようとして」いる)光景が見える。
曰く「○○会」「○○県人会」「○○友の会」・・・。
 せっかく自分の生まれた県を離れて、遠い他県の大学に入学することができたのに、出身県の人たちでつくった「県人会」なるものがあって、その人たちとのおつきあいを余儀なくされ当惑してしまったという話も聞く。
 その上、大学を卒業して故郷に帰ったら「○○大学同窓会」なるものの存在を知らされ、同じ人たちとまたまた顔を合わせなければならず、いつまでおつきあいが続くのかと思うとうんざり。

 そのような集まりは、少なくても年に1度「懇親会」なるものをご丁寧に準備してくれていて『旧交を温ためましょう』と呼びかけて下さる。
 何かの都合で欠席するなどと言えば「つきあいの悪いやつ」というレッテルを貼られるのは必定。そこで何とか都合をやりくりして出かけてみても、古い顔をつきあわせてただ何となく昔を懐古するだけの意味があるのかないのかわからない時間だけが流れ、もったいなかったなあという実感だけが残る、ということのくり返し。

  なぜ日本人はこんなに群れて行動したがるのだろう。また、なぜ自分だけで問題を解決しようとせずにみんなで相談して解決したがるのだろう。
  考えてみれば、私たちの社会はそのような「群れ」を基本として構成された組織の集合体のようである。
  身近には近所の家々で組織する班や区。
  学校にいけば同好会やサークル。
  卒業すれば同窓会。
  社会に出れば職種に応じて設けられる職種別の会や研修の会、研究会。
  なぜ一人で行動しようとしないのか?と素朴な疑問をぶつけたくなるほどにさまざまな会に所属したり所属を余儀なくされる。
  ひょっとすると「やれやれ、これでようやく一人でいられる」と安心して死ねたとしても、あの世にも「日本人会」やら「○○市出身者の会」などがあって、死後の無聊をなぐさめ合う懇親の集いがあったりするのではないかと心配したくなるほど仲間づくりが盛んである。こんなことではおちおち死ぬこともできない。困ったものである。

  ところで、学校教育を含めた教育という作用の目的の一つは、『自立』を促すということであり、その『自立』とは『一人立ち』のことであるから、他に依存せずに自分流をつくりあげ『独立独歩』の精神で生きていけるようにするということのはずだ。
  一方でそう言いながらせっせと組織づくりを行い、「みんなといっしょに仲良く、相談し合い協力し合う」ことを求めるような社会を肯定するかのような教育を施すのは、一見矛盾しているように見える? 
 現行の指導要領でも、生涯学習社会で生きて働く力や構えの柱の一つとして、『他とともに』が強調されている。
  『自立』という概念とこの『他とともに』という概念は、一見相反する内容のように見うけられるし、矛盾したことを学校教育に要求しているかのようにも思われる。

 しかし、と私は思う。
  本来、教育が担うべき役割は『一人立ち』できる人間を育むことであり、その目的達成のために「みんなで考え、相談し、解決したり影響を及ぼし合ったりすること」が有効なのだと認識することが大事なのだ。
『他とともに』は、そういった文脈の中で意味を持つのであって、『自立』を阻害してはならないし、『他とともに』が『自立』に優先してはならず、集団で取り組むことが個の喪失につながるようではその趣旨が生かされないのだ。

  個々がそれぞれに独自の光を放ち、輝きを持つことがまず望まれていて、その結果、集団としての美しさがいっそう増したり、そのことに触発されて個々が磨かれその輝きが益々深まっていくことが望まれている、と考えるとわかりやすいだろうか。
 紅葉が美しいのは、一枚一枚の葉のそれぞれが赤や黄色、橙や茜で彩られ、それぞれがそのままで美しいのだ。
 そのようなさまざまな彩りの個が群となった結果、美しい景観をつくりだしていると言えるが、そこでは一見異色に思える松の緑ですら美しさをつくりだす上で大切な役割を担っている。
そしてもっと重要なことは、それはあくまでも結果としての美しさであって、集団としての美しさを醸し出すことが目的ではないということ。
  だから、まずそれぞれが他に依存しない独自の輝きを持つことの大切さこそ強調されるべきで、「みんなで寄り集まって美しい景色をつくろうよ。そのためには一人一人が美しくなろうね」という発想とは立場を異にしているのだ。
  みんなで考えを出し合ったり検討し合ったり、力を合わせて一つのものをつくりあげたりするのも、そのことによって一人一人が「自分に気づき」「益々自分のよさを高め」て自己を確立できるチャンスとして大切にされるべきだという文脈の中でとらえられなければならない。

  音楽で友達と合わせてアンサンブルをするのも、『自分だけでは足りないところ、できないことを誰かに補ってもらう』ためにするのではない。
  アンサンブルは、自分と違う友達の個性と出会うことによって『自分を確認する』ことにあるのだ。
  自分に気づき、自分を確認することで育つ「ポジティブな自己概念」の形成は、他の存在やその尊さを認める社会性の育ちにつながると考られるが、そう考えると個の確立を先送りにしてまず社会性を身につけようという発想は、本末転倒だ。

  もともとこのことは、あれかこれかという二者択一の対象として論じられるべきものではないだろう。
  言ってみれば互いに影響を及ぼし合うという意味で、どちらも大切なことではあるが、より良い社会(成熟した大人文化の社会)をつくりあげるのは組織への帰属意識や依存意識ではなく、一人一人が自分の足で自分の力で確かに歩んでいく本当の意味での『自立への意識』『個の確立』なのではないかとつくづく思われるのだ。
  他に対する思いやりややさしさも『自分の大切さ』が十分に認識されているからこそ生まれる心情であることを考えると、益々そう思わざるを得ない。


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