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公教育の危機

 大学入試への英語の民間試験の導入をめぐって問題点が指摘され、延期が
決定という報道がなされた。しかも民間試験導入が決定された経緯もうやむ
やで、きちんとした協議がなされたのかどうかも明らかにされていない。
 なぜ大学外の民間試験に頼る必要があるのか、民間試験を受検させること
になれば、その受検料などの負担をどうするのか、それによって不公平は生
じないのか、などさまざまな角度から子細に、そして緻密に検討したとは思
えないような施策である。
 聞けば中学・高校の6年間、学校で英語の学習をしても自在に英語で会話
をする能力が身につかず、世界でグローバルに活躍できる人材が育っていな
いという経済界からの要請が強かったことから、聴く・話すことを重視した
入試にするためだという。
 それは、子どもが自立し、自らの目で小は身近なことから、大は地球上で
起きているさまざまな問題について見極め、考え、判断することができるよ
うな、まさに“グローバルな世界で生きていける育ち”を求めようとするも
のではなく、単に経済界や産業界といった競争社会に中で“利益をもたらし
てくれる人間”として“活躍できる人間”を会社の駒として得たいという、
本来教育が持つべき理念とは別次元の、安直で低次な発想によって設けられ
た『人材育成』のための策でしかないように見える。
 それはいわば高校生のための入試改革ではなく、経済界や受験産業を含む
「業者のための、業者による試験」をめざしたものでしかないと言っても過
言ではあるまい。

 何年前であったか、安倍首相は『ひとづくり革命』を標榜したことがある
が、これはその流れの中で生み出されたものに違いない。
 しかし、人間は工場で生み出される製品ではない。私は当時『ひとをつく
るとは何事か』と憤りを覚えたものであるが、公教育の最大の目的は、一人
ひとりの子どもの“育ち”に寄り添い、より良き成長を支えることにある。
 まるで規格に合った製品を大量に“つくる”ような製造過程をイメージし
て、それを教育であると考えているとすれば、富国強兵をねらって“ある一
定の価値”を強く押しつけた明治期の教育を彷彿とさせる。

 この民間試験を担当するのは英検やベネッセなどのなどをはじめとする業
者である。そして、この試験導入を決めた当時の文部科学大臣は、もともと
学習塾の経営者だった下村博文氏である。
 学習塾や進学塾を含めた受験産業は、教育の衣をかぶってはいるが、本来
的には教育と似て非なるものである。
 学習塾などの教育産業が子どもたちに身につけさせようとしているのは、
「受験テクニック」であり、そのノウハウを教え・伝え・鍛えることを働き
かけ(指導)の柱としている。
 一方、学校教育(公教育)は、学ぶことを通して学びの楽しさや手応えを
実感し、生涯にわたって“自らの手で学び続けようとする”自立した学び手
を育むことに柱を置いている。
 そこでは人間が本来持っている知的好奇心を存分に発揮し、やむにやまれ
ぬ探究心を支えに、つい頑張ってしまいたくなる内発的動機こそが重視され、
自己の世界の広がりを実感できる「学び」を保障しつつ援助することを柱と
している。

 「学ぶ(Study)」とは、研究的・探求的な対象へのかかわりのことであり、
「習う(Learn)」とは対象とのかかわりを通して習熟していくことである。
 そしてまた「学校」の「校」は“かむがう”と読み、ものごとを突き合わ
せて「調べる」「考える」ことである。
 つまり、「学校」は教えてもらって習う場所を意味するのではなく、文字
通り“(自ら)まなんでかんがえる”場所なのだ。
教えられたことについて習う場所であれば、それは「教習所」でしかない。
 小学校から大学校まで、「教習所」ではなく「学校」と名付けられたのに
は、それだけの意味があるのだ。
 いわば学校は学問(問うことを学ぶ)の場なのであって、一方的に教えら
れた知識を蓄積し、どれだけ覚えられたかを測定される場ではないのだ。

 一見同じような教育活動に見えてしまうが、学校での学びと教習所や塾で
のそれとはまったく意味が違うのだが、教育の素人である代議士にそれがわ
かろうはずもない。そうした人の中から国の基(もとい)となる成熟した市
民を育むべき教育行政を担う大臣が指名され、閣僚となり、浅薄な議論の中
から「教育改革」と称する指示が発せられたことが何よりも問題なのだ。
 そしてその実行を後押しした教育再生実行会議が問題の根源だが、これは
安倍首相の私的な諮問機関でしかなく、国の方針を大きく舵取りするような
組織ではないはずだだ、それがまかり通るところが今の日本の危うさである。
 
 成果主義にもとづく実学が重視されるようになり、基礎研究が軽視される
現状だが、考えてみるが良い。幾人もの研究者が世界で評価され、数多くの
ノーベル賞受賞者を輩出できたのは、基礎研究をはじめとする「学問」を決
して軽んじなかったからではないか。
 この数年、世界の学会で日本の研究論文が引用される数が減少していると
いうのも、基礎研究が軽視され予算が削減されていることに原因がある。
いずれノーベル賞を受賞するような研究が日本からなくなってしまうのでは
ないかと言われていることは周知の事実で、いわば研究の危機だと言って良
いし、公教育も危機にさらされていると言って良い。
 目先の利益追及に前のめりになる現政権の掲げる教育観には強い懸念を抱
かざるを得ないが、業界との癒着も見え隠れして、これが自分の住む国に於
ける学問の実態かと思うと「何と言うことか」と暗澹とせざるを得ない。

=この稿続く=

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台風一過で考えた

 先月台風15号が各地に、とりわけ千葉県に大きな被害をもたらし、いまだ
復旧の見通しも立たず過酷な生活を強いられている人々がいる中で、さらに強
い勢力を持ち、モンスター・タイフーンと名付けられた台風19号が通り過ぎ
て行った。
 強風や豪雨のため77人死亡 9人行方不明 372人けが(10/17現在)と犠牲
になられて方の数が報じられている。
 そして追い打ちをかけるような台風21号の襲来である。
 相次ぐ台風により、とりわけ目立ったのは、停電による二次被害による復旧
の遅れと多くの河川が氾濫し、各地で洪水が起き、避難指示や避難勧告がなさ
れたこと、逃げ遅れた多くの人が亡くなられたことだ。
 修復や復旧の困難さを思わせる模様がテレビなどのメディアで報じられてお
り、見る度に災害の大きさを思い知らされる。
 洪水や浸水の被害にあった地域の方々が、これからの生活をどう立て直して
いかれるのだろうか、と考えると胸がつぶれる思いがして言葉もない。聞けば
住み慣れた家を手放し、他に移住先を探すことをやむなく決断された方もおい
でになるという。その悲しみや無念さを思うと痛ましくてならない。
 
 近年、『経験したことのない』とか『10年に一度』あるいは『50年に一度』
といった形容がなされる異常気象が続発しているが、この要因が地球温暖化に
よるものであること、そしてそれが温室効果ガスによるものであることを明確
な証拠をもとに否定できる説明はできそうもないのではないかと思われる。
 台風が発生しても、日本近海の海面温度がかつてのように低ければ、その海
域に到達した台風は温帯低気圧に変わるはずなのだ。ところが赤道近くの海面
温度の上昇ばかりか、日本付近の海面温度まで高い状態が続いていることで、
台風がその勢力を弱めることなく強い勢力を維持したまま到達するようになっ
てしまったことが、このような『経験したことのない』暴風や豪雨をもたらし、
『想定外の被害』を被害をもたらしていることは疑いようがない。

 世界各地で氷河がその面積を減らし、極地で氷が大量に融け出している様子
を見ても、地球全体の気温上昇が続いていることは疑いようがない。
 石油や石炭の消費量の増加に伴い、大気に排出される二酸化炭素の量が増え、
二酸化炭素を吸収する森林の破壊も重なり、地球規模の気温の上昇(地球温暖
化)が起きているというのは周知の事実だ。
 そうした気温の上昇が「異常気象」と呼ばれる気候変動を生み、大雨や干ば
つなどさまざまな気候の異常につながっていることは、科学も証明している。
 そうした危機感から、グレタ・トゥーンベリさんが「私たちは絶滅を前にし
ている。なのに、あなたがたはお金と、永続的経済成長という『おとぎ話』を語
っている」と、国連気候行動サミットでの演説で批判したことは記憶に新しい。

 また、アントニオ・グテーレス国連事務総長も『世界の温室効果ガスの排出は
増えている。気温は上がっている。究極的には命にまで結果が差し迫っている。
そしてさらに悪くなる一方だ。科学は否定できない。多くの場所では気候危機を
知るのに図表は必要無い。窓の外を見るだけだ。』として、『科学は今のままで
行けば、今世紀末に3度気温が上がると言う。私はそのときいないが、私の孫が
いる。私は彼らの住む唯一無二の地球を壊す共犯者になることを拒否する。若者、
国連、ビジネスや金融、政府、市民社会のリーダーが動き始め、行動を起こして
いる。しかし、成功するためにはほかにも多くの人が温暖化対策を取る必要があ
る。先は長い。だが運動は始まった。』とパリ協定の締め切り2020年を前に動き
を強める必要性を説いている。

 COP3で決められた「京都議定書」により、先進国にはCO2などの温室効果ガ
ス排出を減らす義務が負わされたが、発展途上国の経済成長が急激に進み、エネ
ルギー使用と温室効果ガス排出が増大して、先進国を上回るようになった。
このため、196の国と地域が2015年の会議(COP21)で決定したのが「パリ協定」
だ。ところが地球温暖化の原因が人間の活動による二酸化炭素の排出増加にあると
いう考え方には異議を唱える人物もおり、そのわかりやすい例がトランプ大統領で
ある。アメリカファーストを唱える彼は、アメリカの経済活動を優先したい立場か
らパリ協定からの脱退を表明しているのだ。
 パリ協定は2020年の本格的なスタートに向けて、細かい仕組みやルールを作っ
ていくことを想定している。
にもかかわらず、そうした危機感を共有せず、身勝手な人間の営みを優先しよう
とする大国の論理はいかがなものかと思わざるを得ない。自分たちの代が良けれ
ばそれで良いわけではない。国連事務総長が言うように『唯一無二の地球』を子
や孫の代に大切に受け渡していく責務がある。そのために全世界の国々が、そし
てすべての市民が危機感を共有して何をすべきか、何ができるかを考え、実践し
ていく必要がある。
 
 日本では、近年だけでも東日本大震災とそれが引き起こした福島の原発事故、
熊本地震、西日本豪雨、常総市の鬼怒川堤防決壊等々、大規模災害が相次いで
起き、人間のこしらえたものなど自然の猛威の前ではひとたまりもないという
ことを痛感させらる事態が頻発している。
 つくづく思うのは、『人間の叡智』などという言い方は、単なる驕りでしか
あるまい、ということだ。もっと謙虚に事態を正確に把握し、高く広い視野か
ら何が求められているかを考え、将来を見据えて協働することのできる高々と
した志をもって困難な道程を切り拓いて行く知惠こそ、真の『人間の叡智』で
あろう。
 これ以上豊かな生命にあふれた、貴重でかけがえのない生きとし生けるもの
の「生きる場」としての地球を汚し続け、生きることの難しい場としてはなら
ないはずだ。

 「このままの状態でCO2が増えていくと、2100年には人間が生きられなく
なる」と予測する研究もあるという。最近、アメリカの研究グループが発汗に
よる体温調節機能からみて人体の限界気温を推定おり、摂氏43度になるとそろ
そろ限界だとしているようだ。
日本は特に湿度が高く、汗によって体温を下げる機能も働きにくい。最近では
夏の気温が38度に達する地域も複数あるので、、限界がもう目の前に来ている
のかも知れないと指摘する研究者もいる。
 国連は2015年、SDGs(持続可能な開発目標)を決めた。全世界を挙げて
いわば「人類最大の課題」の解決に向けて叡智を傾けなければならない時に来て
いるということなのだろう。
台風が過ぎ去った爪痕を見つめながら痛感させられた。

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不寛容な時代を嘆く

 近年、おおらかに多様な文化や考え、人や国としてのありようを認めようとしない、
或いは受け容れようとしない、いわば寛容さとは対極の風潮が世を覆っているように
見受けられる。
 そして一方では、不寛容さの余り「異なるものをやりこめ」、「排除」して、安直に
苛立ちを解消し「スッキリ」したいという気分が、そうした不寛容な態度と同調する
かのようにさまざまな場面で見受けられるようになった。
 アメリカのトランプ大統領に代表されるように、自国主義を標榜し、自国の利益の
みを優先することに前のめりな国の姿が目に付くようになり、日本国内でも最大与党
が多くの市民の声を無視した自分たちの「こだわり」の実現のために、異見を持つ者
を排除したり、誹謗中傷することに躍起になり、真摯に議論をしようとしない態度が
頻繁に見受けられるが、それもそうした風潮を象徴するものだと思われてならない。
 国家レベルだけではなく、市民の間にもそうした不寛容な姿勢や、自分を邪魔する
ものや苛立たせるものを暴力に訴えてでも排除し、障碍を解消して「スッキリ」した
いという子どもじみた姿勢が目に付くようになった。

 日韓関係の悪化に関して、嫌韓報道が相次ぐ中、少し冷静になって問題の解決をと
主張する人物に対して『非国民だ』となじるような嫌がらせに近いメールやSNS上
での非難が寄せられるというのも、不寛容な態度と子どもじみた問題解消への姿勢と
無関係ではないと考えている。
 対外的な問題ばかりではない。市民生活に於いても、「あおり運転」に見られるよ
うな乱暴で直裁的な、本来なら問題解消にならない「安直な問題解消に走る姿勢」も
それに通じるものがあると思われる。
 また、疎外感や喪失感から、誰でも良いから殺したいと思ったなどという犯行に見
られる犯罪者の心理も、自らのやり場のない鬱屈を「一気に」「手っ取り早く」解消
し晴らしてしまいたいという、(本来的な解決とは無縁な解決の仕方でないことは当
然であるにもかかわらず)「社会の不寛容さ」に対するこれまた「不寛容極まりない」
心の動きがあるのかも知れないと見ている。

 ここで話題を「寛容さ」ということに転じたい。
 私はこれまで“リベラル”という概念を、右派に対する左派、保守に対する革新、
という具合に漠然ととらえてきたのだが、そうではないことを知らされた。
 本来の“リベラル”とは、と『大衆の反逆(オルテガ・イ・ガセット)』を読み解く説明の中
で、中島岳志(東工大教授)は、もともと“寛容”という意味から発生しているのだ
と指摘していることに出会ったからだ。
 以下、引用である。
  --------------------------------------------------------------------------------------------------------
    近代的な「リベラル」概念の起源は、十七世紀前半、ヨーロッパで起
   こった三十年戟争にあるとされています。この戦争は、本質的には価値
   観をめぐる戦争でした。前世紀に宗教改革があり、プロテスタント、な
   かでもカルヴァン派がヨーロッパで大きな力をもちはじめた。これに対
   して旧勢力であるカトリックの人々が反発し、ヨーロッパを焦土にする
   ほどの戦争につながっていくのです。
   しかし、三十年問の激しい戦いを経たにもかかわらず、どちらが正しい
   という結論は出なかった。そこで人々は気付くのです。「価値観の問題
   については、戦争をしても結論は出ず、人が傷つくだけである」。
   ここに現われたのが「リベラル」という原則でした。
    つまり、自分と異なる価値観をもった人間の存在を、まずは認めよう。
   多様性に対して寛容になろう。自分から見ると虫酸が走るほど嫌な思想
   であっても、それはその人の思想だと受け入れることが重要だと考える。
   これが近代的「リベラル」の出発点なのです。
    この概念は言い換えれば、「あなたの信仰の自由は認めますから、私
   が信仰をもつことについてもその自由を保障してください」ということ
   にもなります。ですから、必然的に「寛容」は「自由」という観念へと
   発展していく。こうして自由主義としてのリベラリズムが生まれてくる
   のです。              (NHK「100分de名著)
 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------

 それはすなわち、自由主義=最高に寛大な制度という考えにつながり、他者を受け
容れるという寛容な精神に他ならない、という。
 そして、著者のオルテガ・イ・ガセットは、『リベラルの原則に基づいた「最高に
寛大な制度」である自由主義は、「地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである』と
し、『いくら多数派であり、大きな力をもっていても、リベラルの原則(他者に対す
る寛容)を崩してはいけない。いかに多数者がさまざまなことを決定するのであって
も、その多数者と同様の考えや感じ方をもたない人の権利を擁護する余地をつくらな
くてはならない』と断じているというのだ。
 一方で、このリベラリズムを共有することは、非常に面倒で鍛錬を伴うというのが
オルテガの認識だという。自分と考え方の異なる人間に対して、すぐにかっとなった
り、一方的に支配したりしようとせず、違いを認め合いながら共生していく。それは
手間も時間もかかる面倒な行為であるけれど、それを可能にするために人間は、歴史
の中でさまざまな英知を育んできたと考えていたと中島は指摘する。

 そうした“面倒で鍛錬を伴う”構えや向き合い方が、市民生活に於いても国家間の
関係に於いても、(長い人間の失敗の歴史から生まれてきた崇高な知惠として)重視
されなければならないと思われるのだが、面倒さを嫌い、鍛錬を怠る安易な姿勢から
としか思えない、身勝手な、そして居丈高な主張の応酬ばかりが目につくようになっ
たということなのだろう。
 それはいわば「夜郎自大」な広がりの乏しい、未成熟な社会や人間のありように似
た愚かしい姿そのものとしか思えないし、そうした「未成熟」に愚かにも立ち返って
しまった姿なのかも知れないと私は見ている。 
 寛容な構えを放棄し、自己の考えや希求するものにこだわるということは、すなわ
ち“拘泥”“束縛”から脱却できない姿であることは言うまでもないが、その姿勢から
は“寛(ゆったり、ひろく)”“容(うけいれ、うけとめる)”な志向などは望めそうも
ない。
そしてまた、その故に他から信頼され、頼もしいと受け止めてもらえる存在としてある
ということも期待できないはずだ。
 そのような人物・集団・国家が、後世に「誇れる存在」として歴史に名を残すこと
などない、ということは歴史が証明しているのだが、自己肥大化するあまり、そんな
ことすら顕在意識にのぼらなくなってしまった人物が多くなっているように思われて
ならないのだ。この不寛容さがはびこる時代を慨嘆するばかりである。
 
 考えてみれば、豊かな生命が息づく地球は、広い宇宙の中で多くの偶然によって奇跡
的に生まれたたった一つの存在なのかも知れないのだ。膨張し続ける広大な宇宙の中で
は、ちっぽけな存在かも知れないが、誠に得がたい小さいけれども貴重な星の表面で、
紛争や衝突を繰り返し、果ては地球の環境までも破壊し続け、自らの存在までも危うく
するということが、唯一の「知的生命体」としてのあるべき姿とは到底思えない。
 地球が滅べば、ノアの箱舟に乗って他の惑星に移住すれば良い、などという話に与す
べきではない。いずれ移住先の惑星もヒトの手によって環境破壊されるだけのことで、
今ここで起きていることに対する望ましい解答でないことは論を待たないからだ。
 多少話を広げすぎたかも知れないが、そうした視座から“互いの自由を守るため”に
何を自己内に育んでいけば良いか、互いにどう接すれば良いかを考え実践して行くこと
こそ、言葉を操り、言葉で考え、考えを確かに伝え合うことのできる「ヒトの存在意義」
に違いないと思われてならないのだ。そのためには、「不寛容さ」を脱却し、多様さに
対する深い理解と認め合おうとする不断の努力が不可欠であるということは疑いようが
ないであろう。

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イヤな感じの参院選

 何ともいぶかしく、そしてイヤな思いが拭えない今回の参院選だ。

 テレビで頻繁に自民党のCMが流れるかと思うと、ネットの広告でも同じ物が顔

を覗かせるなど、自民党が安倍首相を看板にしてPRに躍起になっているが、その

頻度やなりふり構わない様子が異常のように思われるからだ。

 聴くところでは、参院選での演説用資料して活用してほしいと、野党やメディア

を攻撃する内容が書かれた本を政党本部が各議員事務所に配布したという。

 その内容は、自民党の中堅衆院議員が「悪意に満ちすぎている。公党がこんなも

のを教育用に配るなんてあってはならない」と洩らすほど、下品で稚拙なものだと

報じられている。

 想像するに、ただ単に野党や対立するメディアを攻撃し、貶めることを目的に作

られた本なのであろう。

 だが、他者を非難し、攻撃し、貶め、あざ笑うかのようなキャンペーンをするの

が選挙運動の姿なのだろうか。

 堂々と論陣を張り、自らの主張を展開しするのが本来の選挙運動のはずだ。

 圧倒的多数を誇り、大きな力を有している与党が、勢力の弱い野党を子どもじみ

たやり方で見下すような、そしてみんなで取り囲んで弱い者を嘲笑するかのように

攻撃する姿勢は、「いじめ」を彷彿とさせる卑劣なものでしかあるまい。

 何とも政権与党の不寛容な態度、品下がる姿ばかりが目につく選挙だ。
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現政権の正体

 先日来、各メディアが金融庁の審議会が出した「老後資金2,000万円不足」の報告書を
めぐる話題が報じられている。問題なのは、政権にとって不都合な真実をなかったことに
しようとするその姿勢だ。
 朝日新聞によると、安倍晋三首相はその報告書を見て『金融庁は大バカ者だな』と激怒
したとも伝えられている。そしてついには、麻生大臣のから『政府の政策スタンスとは違
うから受け取らない』と言いだし、与党幹部も『報告書はもう存在しない』とまでシラを
切る事態となった。

 そもそもこの審議会は、金融庁の諮問を受けたものである。にもかかわらず、政権の意
に沿わないものだからと言って“なかったものにしよう”というのであれば、審議会は事
実に反しても政府の意向を汲んだ結果を都合良く作成するための“御用機関”ということ
になってしまうであろう。
 安倍晋三首相は先月19日の党首討論で、国民民主党の玉木雄一郎代表からの質問を受
けて『(事実を検証するよりも)大切なことは、国民に誤解を与えない資料をつくること
ではないか』と答弁している。
 この審議会の出した報告書を“誤解を与えるもの”と断じているが、そんなことはある
まい。この政権の正体(本性)は、この答弁にこそ良く表れている、と私は見ている。

 都合の悪いことは『誤った情報』『誤解を生むもの』として国民に知らしめず、たとえ
国民が知ってしまったとしても『なかったもの』として臆面もなく隠蔽し、葬ってでも、
国民の歓心を買うようなものに作り替えて示しておけば我が身は安泰だ、する姿勢だ。
 つまりこの場合のように、『(誤解を与えない資料を)つくる』ことで、真実から目を
そらせることが政治の役割だ、としているようにしか見えないが、事実と異なるものをつ
くるということは、卑近な言い方であるが『でっちあげる』ということに他なるまい。
 何やら戦中の「大本営発表」を彷彿とさせる姿勢だ。

 そこで真実を報道しようとするメディアを「中立・公平」ではないメディアとして攻撃
したり、御用メディアを重用して言論を封じ込め統制しようと画策することに汲々とする
のだ。さらにその対象はメディアに限らず、異見を持つ官僚や野党に及び、奸計を用いて
でも相手を糾弾したり、印象操作をしたり、ねじ曲げた情報をメディアにリークするなど
して追い落としたり黙らせたりしてきたのだ。
 そのような政権であるから、国連の「言論と表現の自由」に関するデービッド・ケイ特
別報告者に『日本では政府が批判的なジャーナリストに圧力をかけるなど、報道の自由に
懸念が残る』と警告される事態を招くまでになっており、そのことは周知の事がらだ。
 多くの日本国民は気づいていることだが、その報告書でも『政府の記者会見で批判的な
記者が質問をした際、当局者が記者クラブを通すなどして公然と反論』したり『放送局に
電波停止を命じる根拠となる放送法四条を盾に事実上、放送局への規制』していると指摘
している。つまりは国際的に見ても、異常なほどに言論統制が浸透しているということだ。
 
 現実に目を向けず(現実に向き合おうとせず)、現実的な問題に立脚して課題を解消し
ようとすることのない“リアリティー”に背を向ける姿勢は、妙なナショナリズムと相ま
って、その傾向を強くしている。私はそのことに非常に危険な匂いを感じずにはおれない。
 かつての旧陸軍が、あれほど無謀な戦争に突き進み、多くの国民に犠牲を強いた上に、
壊滅的な敗北を招いてしまったのも、“国民の歓心を買う”ような希望的情報にすがり、
それ以外の真実は『それは誤解でしかない偽の情報だ』とばかりに無視したり排除したり
断定的に決めつけて隠蔽したりした結果なのだ

 これまでの現政権の振る舞いは、旧陸軍とよく似ていると言わざるを得ない。歴史を
顧みれば、非常に危険な兆候であるにもかかわらず、なお一強を保ち、一定の支持率を
保ち続けていることが不思議でならない。
 俳人の故金子兜太氏やノンフィクショアン作家の澤地久枝氏が『アベ政治を許さない』
としたのも、言論の自由を守ろう、ひいては現憲法を守ろうという現政権の危うい匂い
を感じたからに他ならない。
 現在うやむやになっている多くの政治的な問題は、この政権のそうした「本性」から
生まれたもの、もたらされたものであることを思うと、きちんとした良識に基づく抑制
的な政権に一日も早く戻さなければなるまいと強く思われてならないのだ。
 この政権の持つもう一つの本性が別に存在し、それがまた多くの政治問題の根っこに
あると見ているが、それはまた別の機会に譲りたい。
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「悪夢」発言について考える

 毎日新聞の記事(5/10)によれば、安倍首相が今月9日旧民主党政権を念頭に「悪夢」
と再度発言したことを受けて、民主党の流れをくむ立憲民主党、国民民主党などは10日、
一斉に反発したという。
 安倍首相のこうした発言は、子どもじみたものとしか思えず、当然のことながら国権の
最高機関である「国会」(言論の府)でなされるべき“質の高い次元“のものとは言えな
いと断じて良い、とすら私は見ている。
 卑近な例ではあるが、幼い子どもが喧嘩相手をやり込めるのに窮すると、いまそこで起
きている衝突の原因とは何ら関係の無い『おまえの母ちゃんでべそ』という言葉を投げか
けて鬱憤晴らしをする、あるいは相手の口を封じ込めようとする未発達な姿と同じ次元の
ものとしか見えないからだ。
 国会は相手をやりこめることが重視されるべきではなく、正々堂々とした論を展開し、
互いの意見を尊重し、調整しつつ、よりよい政策を具現化していくためのあれこれを構築
していく場であることこそが望まれるはずだ。
 自身がこだわることの実現にばかり拘泥し、異見を封じ込めることに汲々とし、懐の深
い思考・哲学・論理の背景を支えにした論戦とは対極の「子どもじみた」姿勢からは、頼
もしさや高潔さが微塵も窺えず、尊崇の気持ちなど起きるはずもない。
 見れば見るほど、国会での議論が子どもじみた“勝ち負けを競う”のレベルに終始して
いて情けないほどであるが、その原因の多くは安倍首相の姿勢によるものだ。
 このような人物を宰相として戴くことは、国民として恥ずかしい思いがするし、残念で
悲しむべきことと言わざるを得ない。
 
 私自身は、この首相の言を借りれば「悪夢」ならばまだ良い、とすら考えている。
 「夢」なら現実に起きてしまったことではなく、いつかは目が覚めて『夢で良かった』
と安堵できるからだ。
 だが、現政権下で起きていることは「夢」ではなく現実のことだ。
 残念なことに、威勢の良いスローガンとはうらはらに、それらはほとんど成果があらわ
れておらず、それを隠そうとまるで目眩ましのように目先を変えたスローガンを打ち出す
ということがこの政権の常套手段になっている。
 そうしたことの繰り返しは、失政を目立たなくするための「嘘」や「隠蔽」が横行する
政治の空気を生むことにつながると同時に、さまざまな機会をとらえて政治利用し、支持
率浮揚を図ろうとする姿勢にもつながっている。改元によるお祝い気分を煽るような振る
舞いしかり、新紙幣の早々とした発表しかり、2020年五輪の広報しかりで、国民が浮か
れ気分でいる間に自分たちの失政が忘れ去られると同時に、新しい時代・愉快な時代・賑
やかな活気のある時代を招来することができた政権として国民に意識されれば、ますます
自分たちのコントロールしやすい国と国民になると期待しているはずだ。
 案の定、内閣支持率が上昇し不支持率を10ポイントも上回ったと19日に報じられた。
 何と御しやすい国民であることかと与党は胸をなで下ろしているに違いない。

 だが忘れてはいけない。この政権ほど国会を軽視し、乱暴な強行採決などを行い、主権
者である国民の「知る権利」や「学ぶ権利」、「自由に発言する権利」などをじわじわと、
そして国民に気づかれないように制限することに力を入れた政権は戦後なかったことを。
 「真摯に」「説明する」と言いながら、それがなされたことを見たこともないし、「責
任は首相である私にある」と言いながら何らかの形で責任をとったことも見たことがない。
 さらにはあろうことか『国民も憲法の遵守を』とまで発言したこともある。憲法とは、
政権の暴走を食い止め、国と国民を守るための仕組みであるにもかかわらず、国民に遵守
を迫るということは憲法に対する理解が甚だしく欠如しているということを露呈している
ことに他ならない。
 またある時は、国会での答弁で『私にも発言・表現の自由が有る』と言ったこともある。
 確かに首相も国民の一人であるから「表現の自由」は保障されている。しかし、表現の
自由は「声なき声を持つが、声を上げられない国民」の権利を保障するものだ。強い発言
力を持つ政権担当者がそれを声高に主張するというのも、法の精神を読み間違えていると
いうことのあらわれであるとしか思えない。
 このように憲法についての浅薄な理解しかできていないからこそ、臆面も無く主権者で
ある国民からさまざまな権利を奪い、法の名の下に国民を巧みにコントロールする手段と
して憲法を位置づけられるよう、改正を目指したいのであろうことは明白だ。

 私はずっとTBSのラジオ放送「荒川強啓のデイ・キャッチ」を愛聴してきた。政権を
監視し、鋭い視点から政策の問題点を指摘し、コメンテーターや視聴者、リポーターの声
を取り上げつつ「望ましい国のありよう」を論じてい希有な番組である。
それがこの4月末で突然打ち切りになってしまった。パーソナリティーの荒川自身も理由
はわからないとしているが、報道番組への関与と締め付けが見えないところでずいぶん前
から始まってり、じわじわと拡大しているということだと疑われて仕方がない。
 TBSばかりではない。NHKはニュース番組で政権におもねった報道姿勢を強めてお
り、あたかも政権の御用メディアになってしまったかのようで、(大袈裟ではなく)戦時
の大本営発表をことごとしく報じた姿勢とダブって見えてしまうほどに姿を変えてしまっ
た。かつては、「クローズアップ現代」や「時事公論」などで文字通り“公平・公正”な
視点でさまざまな問題を取り上げて報じてきたはずだが、そうした構えは姿を消してしま
った。そればかりか、優秀なキャスター、中立な視点で問題を論じようとするキャスター
の多くは、閑職に追いやられたり他局に籍を移すことなどを余儀なくされたようである。
 自分たちにとって不利な報道をするメディアを“公平・公正”ではないと非難し、自分
たちにおもねるメディアだけを大切に扱うという姿勢は、「真実から目をそらせたい」と
いう意図のあらわれだと言って良いだろう。
 
 話は変わるが、今月25~28日に令和初の国賓として来日するトランプ米大統領が26
日に両国国技館で大相撲夏場所を観戦し、優勝力士に「米国大統領杯」を贈呈する予定だ
という。27日に行われる予定の日米首脳会談で「日米同盟の結束を確認し、世界に発信
する」ための布石だと報じられている。
 しかも国技館の貴賓席での観戦ではなく、格闘技好きな大統領のために土俵近くの升席
に椅子を置いて座って観戦し、複数の警護官(SP)が周囲について座布団が舞った場合
に備えるという。
 アメリカにおもねりすり寄って、巨額の軍事予算を支出して武器や戦闘機を購入したり、
沖縄県民の意思を無視して基地の重圧を押しつけ続けたり、この首相は「おもねる」こと
が好きなのだろうと思われてならない。おもねることで、自己を利することができるなら
それに越したことはないし、むしろおもねることを重視しているのかも知れないとすら思
えるのだ。
 だからこそ自分におもねりすり寄ってくる者が大好きなのだ。“おともだち好き”なの
もその精神風土のあらわれなのだと見ると納得が行くし、今回の大統領に対する令和初の
国賓としてもてなしたいという考えも(国技館での警備や警護にかかる負担を度外視した
とも言える慮外な扱いだ)、うまく説明ができそうだ。
 そして、それはまた、自分にすり寄ってこない者を敵視・冷遇する態度にもつながるは
ずだ。
 だから、敵・味方を弁別して、ついには敵とみなす者は攻撃すべし、黙らせるにしくは
ないという態度を生むのだ。たとえすり寄ってきた者でも、いったん異見を吐いた者や自
己の都合に合わなくなった者は敵とみなされ、切り捨てられ激しい攻撃にさらされるのだ。
森友学園はその典型的な良い例だ。

 だが、そうした態度はどこまでも「個人」の性向のレベルにおける話のはずだ。どうや
ら個人的な性向そのままに国家を論じようとするこの人物からは、高い視座からモノゴト
を見つめ・考え、練り上げ、幅広い視野で論じられるような“公”に資する構えや動きは
期待できそうもない。どこまでも“私”の人なのだ。これまでのさまざまな言動から窺え
るのは、あらゆることを“私物化”し利己を導き出そうとする人物の姿でしかない。
 本当に国の行方をこの人物に託して良いのかと考えた時、懸念ばかりか危惧されること
の方が先に立つのだ。
 この人の“私”のために、国民が浮かれ騒ぐ歓迎ムードの中で憲法改正などという重要
なことが「国家の喫緊の事項」としてなされるようなことがあれば、将来に大きな禍根を
残すことは必定だ。
 
 だが、振り返ってみれば、国民がおかしたそのような重大な過ちは過去にもある。
 先の大戦でアメリカに戦戦布告した際、それを支持し、大喜びしたのは他ならない国民
なのだ。日清・日露戦争でかろうじて勝利したために、大国意識・強国意識を持ってしま
った国民の多くが、リアリティーのない神国主義をベースに鬱屈を晴らす絶好の機会とで
も勘違いしたか、開戦を祝いごとでもあるかのように支持し後押ししたのだ。
 敗戦後に多くの犠牲を払った国民の多くは『国に欺された』と嘆いたと伝えられている
が、私から見れば一方的に欺されたのではなく、国の方針を歓迎し、歓迎した挙げ句に、
かけがえのないものを失う羽目になっただけだという一面もあるのだ。いわば国のかけ声
を“我が事”として考えることなく盲信し、お祭り騒ぎよろしく戦争に突入することを受
け容れ、喜んで“戦うこと”を選んだ挙げ句のことなのだ。
 
 どうやら国民の『お上に任せておけば大丈夫。悪いようにはしないはずだ』という他人
事のように任せようとする国民性、一斉に同じ方向に走り出そうとする国民性、みんなと
同じにすることが大事と考える国民性は、残念ながら未だに息づいているとしか思えない。
 今、改元を期に「新しい時代が来た」と喜び、東京五輪の開催を目前に浮き足立つかの
ように心待ちにする風が流れ、バブルの再来を願うような浮薄な気分が台頭し、憲法改正
も何か問題があるか、という他人事のようにとらえる風潮からもそれが窺える。
 そうしたことのあらわれが、多くの不祥事を起こしながら下がらない支持率をこの政権
に与えているという不思議な現象だ。
 国民が目を凝らして何が起きているかをしっかり見極めなければ、「悪夢」どころか悪
夢以上の「取り返しのつかない現実」がすぐそこにやってくるのだ、ということを自覚し
なければなるまいと強く思われるのである。


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改元に際して考えたⅡ

 改元に際して、『これで良いのか?』と未だに納得できないことがいくつもある。
 その一つは、平成と改元された折にはなかった、総理大臣の会見がなされたことだ。
 あの平成改元の折には小渕官房長官が改元の発表を行い、竹下総理は会見などせず小渕
官房長官を通じて談話を発表しただけだったはずだ。それなりに抑制的であったし、それ
が当然の、至極まっとうなあり方だと言って良いであろう。
 今回は首相自らが、国書からの引用であることをことごとしく伝え、『悠久の歴史と香
り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き
継いでいく』『そうした日本でありたいとの願いを込めた』と語ったのだ。
 時の政権や一首相が、勝手にというかおこがましくというか、新元号に『願いを込めた』
として国内外に知らしめるようなものではあるまい。
 まずはそのことに強い違和感と“それで良いのか”という疑問を抱かざるを得なかった。
 まるで首相その人のための改元のように私には思えたからである。

 その上、当日の会見では次のようにも述べていた。『本日から働き方改革が本格的にス
タートする。~中略~それぞれの夢や希望に向かって頑張っていける社会、一億総活躍社
会をつくりあげることができれば、日本の社会は明るい。』
 ここで語られているのは、元号とはまったく無関係な、安倍総理自身が掲げる“政治ス
ローガン”でしかないはずだ。改元についての会見で、自己の政治スローガンを臆面もな
く論じるというのは、新元号を首相という立場を政治的に利用する姿でしかあるまい。
もっと言えば、元号を私(わたくし)していると言われても仕方のない姿だと言える。
これも随分と「場と立場」をわきまえない振る舞いだと私には思えた。

 また、先日のこのブログにも書いた通り、国書からの引用ということを強調していたこ
とも未だに腑に落ちて“なるほどそうか”と受け止めることができずにいる。
 そもそも元号という制度は、中国を起源としているものだということもある。さらに、
万葉集からの引用としているが、その引用部分は漢文(中国の張衡の詩文「帰田賦」を踏
まえて書かれた文章)であり、漢籍を排して国書を典拠にしたなどとことごとしく言い立
てる程のものではないはずだ。
 「漢籍からではなく国書から」という言い方からは「からごころではなくやまとごころ」、
つまり「中国ではなく日本」という自国主義とも言うべき偏狭さが見え隠れする。
 日本はもともと中国からの文物を学ぶことによって、我が国独自の文化を築いてきたの
ではなかったか。
 古来、中国と日本は「同文同種」と言われるように同じ文字を持つ同胞の国と言われて
きたはずだ。もちろん、同じ文字を持つからこそ誤解や行き違いが生じることも多々あっ
たことは否めないであろうが、朝鮮も同じ文字を使う隣国として、言葉は通じなくても文
字で書き表せば意思の疎通がかない、理解し合い互いの歴史を紡いできたことは疑いよう
がない。
 ここで大切なのは、「やまとごころ」を強調するような偏狭なナショナリズムではなく、
多様な文化がもたらす交流が豊かな世界の構築に役立つということをこそ重視することで
あろう。
 欧米各国の言語、文化、思想などが、古代ギリシャ、ローマのそれを無視して語れない
ように、日本も韓国も「漢語・漢字」による文物がなければ、独自の文化を構築してくる
ことはできなかったはずだ。峻別して『国書由来を』と言いつのるのは浅薄な考えでしか
ないように思えて仕方がないのだ。
 おそらく、嫌中・嫌韓を主張する人々、すなわち安倍政権を強く支持する層の受けを狙
ってのことであろう。

 そうであるにもかかわらず、このような薄っぺらとも言えるナショナリズムを身に纏っ
た改元に、マスメディアがこぞってお祭り騒ぎのような報道をし、一般市民も大喜びをし
て浮れ気分になり、お祝いムードで歓迎するという光景に少なからず驚き、何の騒ぎだと
いぶかしく思わざるを得ないのだ。
 そしてもっと驚くのは、この改元発表がなされたことで政権の支持率が10ポイント近
くも上昇したことだ。改元したとは言え、そのことによってまだ何も成果が上がったわけ
でもない、つまり内閣が何か国民にとって「良いこと、望ましいこと」をしたわけではな
いのに、支持率が上がるとはどういうことなのだろう。
 もっと言えば、先に書いたような「差し出がましい」と言おうか「おこがましい」と言
おうか、越権行為としか思えないこの政権の振る舞いを見てもなお、めでたいことだと思
える感覚がどうしても理解できないのだ。
 それでなくても、この政権はこれまでも国会を軽視し、立憲主義をおとしめ、民主主義
に不誠実な振る舞いを繰り返すことによって、政治の劣化を招いてきたのだ。
 そうした多くのうやむやのままになっているままの問題をくつがえすほどの何事かをし
たわけでもないのに、支持率が上昇することの奇怪さはどう理解すれば良いのだろうか。
 なんと日本人は御しやすく操りやすい国民であることかと、政権はほくそえんでいるに
違いない。日本はこのままで大丈夫か?そして気を確かに持とうよと思わざるを得ない。

 それでも一個人がこうした文章を書いても、戦前・戦中のように官憲の厳しいチェック
を受け、故のない罪に問われるようなことがないだけ、幸せかも知れない。
 だが、現政権がめざすところを想像すると、そんな自由にモノが言える時代がどんどん
遠のき、自由が徐々に失われ、さからえない時代に突き進んで行くような気がしてならな
い。それも国民同士が率先して監視し合い、“非国民”“危険分子”と指摘しつるしあげ
るような、司馬遼太郎がいうところの「鬼胎の時代」に向かっていくような怖ろしさを感
じる。(戦中の隣組がそうであったように)
 そういうことにならないように、政権の振る舞いを監視し続け、常に民主主義の危機感
をもって見守ることを心がける必要があると強く思うのだ。

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改元に際して考えた

 天皇陛下の退位と新天皇の即位に伴い、新しい元号が昨日4月1日発表された。
 日常生活では、西暦を使用している私としては元号が必要不可欠なものとは思ってはい
ない。また極秘裏に行われる改元までの手続きなどに関しても、大仰に取り上げ『新しい
元号は何か』と推測して大騒ぎするメディア風景も冷ややかに見つめるだけの話題でしか
なかった。
 そもそも元号は、時の権力者が記念したり祈念したりするごとに、つまりは政権を担う
側の都合で定められ設けられてきたもので、民主社会にふさわしい重大事とはどうしても
思えないのだ。だが、それは私の個人的な思いでしかないということはお断りしておく。
 
 そのような個人的な思いはさておいて、新しい元号が「令和」と決定したと政府からの
発表がなされた。
 一見して不快な思いがし、同時に怒りがこみ上げてきて、怏々として楽しめない一日に
なってしまった。字面から『国の令に順(したが)い、国民相和(あいわ)して、国の隆
盛に尽力せよ』と言われているような気がしたからである。
 政府の発表によれば、「令和」の典拠は万葉集の梅の花の歌32首の序文にある「初春の
令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」にあり、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味を込めたという。
 広辞苑によると、「令月」とは、「万事をなすのによい月。めでたい月」のことだとい
う。また、漢字源によれば、「令」という漢字には「よい(ヨシ)。清らかで美しい」と
いう意味があるという。「命令」の「令」であるとしかとらえることのできなかった私
の不明で、この一字にそのような意味があるとは知らなかった。

 それはさておき・・・。
 「美しい国」などの美辞麗句を並べ立て、一方では立憲主義を無視するかのように虚偽
や隠蔽による政治の劣化を招き、主権在民を平然と無視して国民に憲法遵守を迫り、その
憲法を『みっともない憲法』だと言い募り改憲を主張する現政権だ。
 新元号の発表に際しての会見で、美しい言葉で新元号にこめた意図を聞いても、言葉通
りに受け止めることなど出来ようはずがない。むしろ、『人々が美しく心を寄せ合う中で
文化が生まれ育つ』とか『厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のよ
うに一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせる』などの言
葉に、恐ろしい意図が隠されているといううそ寒い思いを禁じ得ない。
 この政権が積み重ねてきた「虚偽」に満ちた姿勢に目をつぶり、(「真摯」に「丁寧」
な説明をすると言いつつ、それがなされたことがないことだけでも、その姿勢は明らかだ)、
『改元だ』と大喜びしたりはしゃいだりしていては、いつの間にかじわじわと自分たちの
首が締め付けられ、気づいたときには手遅れという事態がやってくること必定だ。

 この政権の思惑が端的に見て取れるのは、これまで漢籍由来の言葉が引用されて策定さ
れてきた元号を、国書からの引用にこだわったという点だ。「愛国心や愛郷心」を持て、
と政権誕生時から主張するこの政権は、日本古来の伝統・歴史・文化に固執し、国民に
それを強要したいに違いない。そもそも「愛国心や愛郷心」は、この国に生まれて良かっ
た、この国で生きることができて良かったと実感するところから生じるもので、「持て」
と言われて持てるものではない。それに先立って、国民がこぞって「良い国だ」と思える
ような国づくりに政官が汗をかく覚悟をもって「公僕」としての任にあたることこそ必要
なはずだ。
 それでなくとも、国民の多くは自ずと生ずる「国や地域への愛情」をもって、国民にと
って迷惑千万な政官による不要不急とも思える行政のていたらくにもめげず、日々の営み
をけなげに築いているのだ。その国民に「愛国心を持て」と言うほど、彼らが民や国を愛
しているとは思えないところが主権者たる国民の悲しさだ。
 それはともかく、国民に愛国の発露を強いるためにも、異例にも「国書」を典拠とする
ことにこだわったのだろうことは容易に想像がつく。
 新元号発表の報道を見て、不快さと怒りを覚えた私の初発の感想は決して大袈裟なもの
でも、見当違いなものでもないとしか思えない。そして、同様の感想を持つのは私一人で
はないはずだとも思えるのだ。

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安倍政権を問う4

◇特権意識がもたらす怖ろしさ

 戦後レジームからの脱却を主たる命題として掲げたこの政権は、正体を明かしてしまえ
ば、戦後民主主義を全否定し、日清・日露戦争にかろうじて勝利したことで生まれた、誤
解とも思える「肥大化した大国意識」に浮かれた戦前の日本に立ち返ろうとするノスタル
ジックな後ろ向きな姿勢をコアに持った政権であることは疑いようがない。
 自然、その姿勢から次々と打ち出される政策のことごとくが“民主国家”と主権者であ
る“国民”のためのものというより、政権の欲する体制のためのものという色彩が濃厚で
あり、“下々の意向”などもってのほかという上意下達のありようこそ望ましいというベク
トルを強く持ったものにならざるを得ず、現にそうしたものになっている。
 そこでは、民主国家にとってふさわしい建設的な議論や討論など不要なものに他ならず、
権力者の意向を伝え、国民を従わせる方策を打ち立てることこそ重視される。
 権力者である自分が伝えているのだ、異見や異議をさしはさまず、受け容れよという姿
勢がこれまでの現政権のふるまいからは透けて見えすぎるほどに見える。

 私はこれまで、安倍首相が「懇切・丁寧に」「説明する」としながら、そうした説明をし
た姿を見たことがないことから、この人物は日本語としての“懇切”“丁寧”“説明”とい
う意味を正しく理解できていないのだろう。だから丁寧な言い回しや言葉遣いですれば良
いはずだとばかり、繰り返し同じ主張を繰り返すのだろう、そのために質問者の疑義に適
切に対応できなかったり、疑問を解くために「説き明かす」努力を怠っているように見え
てしまっているのだろうとも考えていた。
 しかし、それだけではうまく説明できないとも気がついた。
 彼の人は「説明」しているつもりなのだろう。繰り返し、執拗に、そして相手の揚げ足
をとったり、論点をずらして相手を攻撃したりしつつでも自分の主張を言い募れば、それ
が「説明」になるはずだと思っているのだろうとも思えるのだ。彼に言わせれば、『こんな
に幾度も繰り返して、しかも丁寧な言葉遣いで同じことを言っている、つまり説明している
にもかかわらず、なぜわかろうとしないのか』と訝しい思いでいるのかも知れない。
しかしそうであっても、その対応の仕方は私たちの常識的なとらえ方からすれば“説明”に
なってなどいないということは論を待たない。

 そこに見え隠れするのは、「権力者の自分」そして「国のリーダーである自分」が言って
いることなのだから、間違っているはずがない。自分が言えばそれが真実なのだ、と臆面
もなく、そして“脳天気”にも思っている様子である。
 誰もが最も驚いたのは、東京オリンピック招致活動に際して、『福島第二原発の汚染水は、
完全にコントロールされている』との発言だろう。現実を正確に把握することなく、そう
主張すればそれが真実なのだというリアリティーのなさを世界に向けて露呈してしまった
のだ。そうした現実把握を度外視した言動が、この政権の政策に対して国民が危惧を抱く要
因になっていることは疑いようがない。そのような“リアリティーが欠如した姿”は、無謀
な先の大戦に国民を引きずり込み、国を危うくした軍部の姿勢と通底する。

 また安倍首相は、これまでも何かことがあるたびに『責任は私にある』としながら、そ
れに伴う何らかの処分を自分に課したことはない。何があろうとも、責任はあっても、それ
に応じた責任をとるべき立場にはないし、そうした処分とは“埒外”の“一般国民とは異な
る特別な存在”とでも自らをとらえているとしか思えない。
 それは道義的な意味での“責任”に限らず、法的なそれについても同様にとらえているか
のようである。そうでなければ、国会を軽視し、三権分立の建前を無視し、強引な政権運営
に走るなどということができようはずがないからだ。
 三権分立と言えば、行政府の長であるにもかかわらず、再三にわたって自らを「立法府
の長」だと発言をしている。こうした誤解も、三権を自らが統括しているし、法を超越し
た存在として自らを誤認していること(それが大いなる勘違いであることは言うまでもな
いことだが)の証左であると思えてならない。これもまた統帥権を盾に国を牛耳った軍部の
姿を彷彿とさせる。

 それはともかく、そうした統治者然とした姿勢がコアにあることが、国民の目を不都合
なことからそらさせるために『国難だ』と大騒ぎしてみたり、公文書の改竄や隠蔽に平然
としていたり、政策提起のためのデータの信頼性を損なうような操作をしてみたりするこ
とにつながっているはずだ。
 また、この政権は矢継ぎ早に次から次へと大仰なスローガンを提示したり、○○革命、○
○改革といった浅薄で短絡的とも言える“目眩まし政策”を繰り出し、何の検証もないまま
に、成果があったと喧伝し続けている。国民に苦渋を強いていることなどそっちのけにして、
不都合な現実に向き合うことなく、成果がないことであっても『未だその過程にあること
だが、いずれ達成できる』のだから、成果が上がっていると言えるのだとばかり、自らの
政策の実効性を誇っている。
 このような不都合な真実に真っ正面から向き合うことを避ける姿勢も、『偉いボクちゃん
がやっていることなのだ。下々の者がとやかく言うことではない』のだという特権意識を
背景にした驕りから生まれる一側面だと私は見ている。

 近年、世界各所で高い理念や思索に裏付けられたとは到底思えないような、乱暴で圧力
的な物言いをするリーダーが出現しているが、アメリカのトランプ大統領などはその典型
で、他国のことながらアメリカという国はどこへ向かってしまうのかと、大いに懸念を、
そして危惧を抱いている人々はすくなくないはずだ。
 しかし、他国のことを心配している場合ではない。敵と味方に分断する政治手法、不都
合な現実、あるいは疑義や指摘などと向き合わおうとしない政治姿勢などの点で、トランプ
大統領と安倍首相は共通した政治姿勢の持ち主だと言っても良いと思えるからだ。
 両国とも「民主主義」を謳った国民主権の国でありながら、国民の権利などどこへやら
吹き飛んでしまいそうな、リーダーの思惑こそが尊重される国になろうとしてしまってい
るし、現にそれが問題の根、いわば“ウミのもと”になっているではないか。

 国民としては困惑するばかりであるが、先日の総裁選でも「石破氏を応援するなら(大
臣の)辞表を書いてからにしろ」とか「人事面で冷遇する」となどという恫喝まがいの圧力
をかけたことが功を奏したか、安倍首相が続投することになった。これがまっとうな政治の
世界で行われる選挙なのかと、疑問を呈したくなるふるまいではないか。
 自らを有利に導くために脅して票を得る、という卑怯な行いは裏社会に生きるヤクザな
人間のすること、あるいは子どもの喧嘩をのようなふるまいだ。
いやしくも「一国のリーダーたる人間のすること」ではない。
 百歩譲って首相自らがしたことではないにしても、それを許すような雰囲気が党内や内
閣府内にあったとすれば、首相自身がそれを問題視すべきだ。
 だが、彼は『そのような発言をした人物がいたのであれば誰が言ったのか。名前を明ら
かにせよ』と、圧力を受けたのが誰か氏名を公表すべきだ、とお門違いの発言をして、問
題をはぐらかせようとしたのだ。
 想像するに、同じような手口で官僚をはじめとする地方事務方に恫喝まがいの圧力をかけ
たことが、モリトモ問題や加計疑惑などの原因となっているに違いない。
 『信なくば立たず』だと言いながら、自ら不信を招いておき、その不信の原因を自らには
ないかのように論点をずらしたり、他に転嫁するかのようなふるまいに“頼もしい”“信頼
できる”と感じる国民は少ないはずだ。
 こうした「程度の低さ」は、もはや品格とか人格とかの問題ではない。
 人間としての「底の浅さ、見方や考え方の浅薄さ」といった質の悪さの問題だ。
 “育ち”は良いかも知れないが、信頼に足る人間として“育っていない”、あるいは自ら
を“育て損なった”浅ましい姿ばかりが浮き彫りになる。
 この浅ましいリーダーの存在そのものが、「国難」と言っても良いのではないだろうか。

=この稿続く=

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安倍政権を問う3

◇反知性・反民主主義に立つ政権

 安倍首相がそこへ戻ろうと欲している「鬼胎の時代」と呼ばれた時代は、日本の歴史
上ほんの短い時代であり、本来あるべき理想の時代でなかった特異な時代であったこと
は言うまでもない。だからこそ「鬼胎」とも称される時代であったにもかかわらず、そ
れが日本の望ましい本来の姿なのだとし、そこへ立ち戻ろうとするのは、どうしたこと
であろう。
 私には、江戸期の人々が「鎖国」状態を、まるで長い歴史を持つ日本古来の祖法であ
るかのように勘違いしていたと同様の思い過ごしや認識違いに縛られているのではない
かと思われてならない。あるいは、祖父である岸信介の果たせなかったことを実現し、
祖父を見返したい、あるいは祖父を上回りたいという子どもじみた願望から抜け出せず
にいるのではないかと思われてならない。
 しかし、いずれにしてもそのような個人的なこだわりで、一国の行方を左右されてし
まって良いはずがない。行政の長の最大の務めは、何と言っても「国民のために」汗を
かくことに他ならないからである。彼の言葉を借りれば『国民の信頼を得て負託に応え
るべく、高い倫理観の下、細心の心持ちで仕事に臨む』ことこそ最大の使命で、自身の底
の浅い、そして高潔さとは無縁の幼稚とも思える「こだわり」に国民が巻き込むことでは
ないはずだ。

 私はかつてこのブログ内で、第一次安倍政権時代の安倍首相を「戦争を知らなすぎる
人物」と評したことがある。しかし、これまでの安倍首相の政策や発言、行為などを見
る限り、「知らなすぎる」のは戦争ばかりではなく、歴史認識や政治的素養、民主主義の
理念等々についても言えるのではないかと見ている。
 それは、学生時代の安倍晋三を指導していた出身大学・成蹊大学の元教員、しかも出
身学部である法学部名誉教授の加藤節氏のこんな発言からも窺えるからだ。
 『大学の4年間などを通して、安倍君は自分自身を知的に鍛えることがなかったんで
しょう。いまの政権の最大の問題点は、二つの意味の「ムチ」に集約されていると私は
思っています。一つはignorant(無知)、そしてもう一つはshameless(無恥)のこと。彼は
無知であることを恥じていない。』『彼は政治学科ですし、憲法もしっかり勉強しなかっ
たんでしょう。』
 散々な人物評であるが、第一次安倍内閣の当時、安倍首相が憲法改正を主張し始めた
頃に立花隆は「愚か者」とさえ称して、その主張を非難したものだ。
 ジャーナリストの青木理も、『安倍三代』(朝日新聞出版)を執筆する際、さまざまな
側面で取材した際の感想について、『結論をひとことでいえば、首相もその妻も、おそろ
しく空疎だった。それでも最大限の世辞をこめて書けば、育ちのいいおぼっちゃま。決
して悪人ではないが、何かに秀でたところがあるわけではなく、つまりは可もなく不可
もない平々凡々な男。少なくとも政界人りするまでは、現在のような右派的性向も見ら
れない。いや、政治的にも思想的にも、何ごとかの知を体系的に蓄積した気配も努力の
形跡もなかった。』と述べるほどに、加藤名誉教授や立花隆の見方を裏付けるような感
想を吐露している。
 
 この政権を語る時に「反知性主義」がこの政権を貫く性格だと言われる所以であるが、
それは致し方のないところであろう。
 小・中学生でも常識としている多数決についての考えにしても、数の力で反対意見を
上回れば、それを是として従うべきだ、と短絡的に考えているところにも如実に表れて
いるからである。
 私たちが小学生だった頃でさえ、多数決で決めるというのは議論をし尽くして最後の
手段で「決を採る」ことで、多数決そのことが何にもまして優先されるわけではないと
いうことを指導されていたし、だからこそ常識として持っていた。
 さらに、たとえ多数決で決まったことがらであっても、そこには少数意見が存在して
いたことを共通理解として持ち、その意見を尊重しつつ実践に移すべきだということも
承知していたのだ。
 しかし、現政権はそうした民主主義にとって大切なその基本的な考えを無視し、単に
多数の賛成が得られればそれで良しとばかりに、乱暴な採決により政策決定、法の成立
をさせてきた経緯を、これまでいやというほど見せつけられて来た。現政権を特徴づけ
ているのは、「反知性」だけではなく「反民主主義」だと言っても良い。

 その「反民主主義」の危険な匂いを隠すために、もっともらしい美しい言葉や威勢の
良いかけ声を発して、国民を煽動するかのように「言葉になかみのない」空疎で曖昧な
はずなのに期待を抱かせるがごとき発言に終始しているのは、明らかだ。
 どれほど精緻な検討を経た上での政策なのか不明な上すべりで安易なことがらが次々
と決定され、しかもその多くが政権にとって都合の良い『国民を統治し、支配する』と
いう意図を巧みに隠そうというものでしかない。その意図を隠すために美しい言葉とか
勢いのよい言葉が用いられていることを、国民の多くは知っているはずだし、知らなけ
ればなるまい。
 端的に言えば、今はまさに『美名を借りて忍びこむ「独裁」』の危機のまっただ中に
日本国民が置かれているということを承知し、我が事として見据えることが肝要なのだ
と思われてならない。
 
=この稿続く=

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